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ヘブン 第7話:ミッシェルさん捏造企画

最終更新日2010年6月6日

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ヘブン

第7話

季節が過ぎ、外出に羽織るものが欲しい頃となった。
ラップの修行は概ね順調だった。
草原の真っ只中では魔力を加減する必要はなく、風も雷も、地割れを起こすような魔法も練習を重ねられるようになった。
ラップはありったけの力をのびのびと使え、自分の持つ魔力の、絶対的な強さを把握出来るようになってきた。
以前と違い、モーリスとの勝負は滅多にしなかった。
それが命の危険につながり兼ねない事を、二人ともはっきりと自覚していた。

転移魔法は、最初のうちは発動しないこともあったが、今ではほぼ確実に成功するようになった。
術を発動させるための心の有り様も、ごく短時間で再現出来るようになり、時間の減少と共に痛みを覚える割合も少なくなっていった。
とはいえ、心の中の取り出しやすい位置に絶望の記憶があることは、日々の暮らしに変化をもたらしていた。
瞑想をする時間は、今や日課となっていた。
ただし、思い浮かべるのはテュエールの記憶ではない。
その日その日で心に浮かんだ様々な事柄を、深く追い掛けていく。
旅の途中で見聞きしたこと、魔法の修行中のこと、館での幼い日々のこと。
考え始めることは様々だったが、たどり着く場所は大抵いつも同じだった。
何故、自分は魔法使いなのだろう。
そして、何故人々は魔法使いを受け入れないのだろう。
答えの出るものではなかった。
だが見つからない答えを、旅に出る前からずっと探し求めていたと、ラップは改めて思い出していた。

ある日、市場から帰ってきたラップとレオは、シャリネの前でモーリスと話をしている少年を見つけた。
「誰だろう?」
ラップは首をかしげた。
「あれはきっと、巡礼の人だよ。」
レオが答えた。
「巡礼? シャリネの鏡を見に来た人?。」
ラップはしげしげと少年を観察した。
そう言われてみれば、少年は小さくない荷物を背負い、身体の要所を守るための簡単な胸当てや前当てを付けていた。
旅姿なだけに精悍な印象だが、年齢はラップと変わらないくらいだ。
「モーリス、今戻りました。」
ラップとレオは二人の側へ行き、口々に言った。
「おかえり。巡礼の人がみえたから、しばらく鏡の部屋に入らないようにな。」
「はい。夕食を取る人、増えますか?」
レオはちらりと巡礼の少年を見て言った。
「どうかな。君、今日の宿は決めているかね?」
モーリスが尋ねると、少年はコクリと頷いた。
「さっき通ってきた町で宿屋を見つけてきました。鏡を見たら町へ戻ります。」
少年は礼儀正しく言った。
「だそうだ。レオ、腕が振るえなくて残念だな。」
「そうですね。」
レオは肩をすくめて答えた。

「まだ子どものうちに巡礼をするのかな。」
レオと共に台所に陣取ったものの、ラップは巡礼の少年が気になって仕方なかった。
「そうだね。去年来た巡礼の人も同じくらいの年の人ばかりだったよ。」
レオは興味が無いようで、キノコを洗って軸の硬い部分を切り落とすのに熱心だった。
「どこから来たんだろう。」
ラップは鏡の部屋の方を向いてつぶやいた。
「そんなに気になるなら、見に行ったら?」
レオが言った。
「でも、鏡の部屋には入るなって言われたよ。」
ラップはこぼした。
「扉の前までは良いんじゃない?」
「……そうかな。」
レオの強力な後押しに力を得て、ラップは立ち上がった。

扉の前にはモーリスが立っていた。
足音をひそめて、ラップはその側へ行った。
「何だね。」
自分に用事があると思ったか、モーリスが小声で尋ねた。
「いえ。巡礼の人が何をするのか気になって。」
ラップも小声で答えた。
モーリスは苦笑した。
「中には入れん。そういう決まりらしいぞ。」
「はい、知っています。オルドスでも巡礼の人しか鏡を見られないと聞きました。」
ラップは目の前の扉を見つめた。
ピタリと閉ざされた扉の向こうに、普段は感じない力が感じられた。
「このシャリネは魔女が始めたと聞いたのですが、何のためにあるんでしょう。」
ラップはモーリスに問い掛けた。
「さあな。今では僅かな村の成人の儀式に使われているだけだ。全てのシャリネを巡り、鏡を見ることが成人の証となっている。」
モーリスは答えた。
「鏡を見て、お告げを聞いて。それだけですか?」
ラップは質問を重ねた。
「それだけだろう。廃れかけた風習だ。実際に巡礼しているあの子どもだって、深い意味など考えたことはないさ。村の決まりだから巡礼に出て、定められたシャリネを回るだけだ。」
扉の向こうで働いていた力が、弱まって消えた。
ラップとモーリスは無言のまま少年が出てくるのを待った。

少年は片手に短剣を携えて扉から出てきた。
「お勤めご苦労さん。」
モーリスが少年に話し掛けた。
「は、はい。」
少年はまだ夢見がちな顔つきで答えた。
「あの、鏡ではどんなものが見られるんですか。」
ラップは少年に尋ねた。
少年は目を瞬いた。
「鏡で見る事柄は、他人に話すものじゃないんだよ。」
少し警戒するような口調で少年は答えた。
「あ…、そうなんだ。ごめんなさい。」
ラップは少年に謝った。
その後は会話のきっかけが掴めず、ラップは何も聞けなかった。

少年がシフールの町へ帰っていったあと、ラップはモーリスの許可を得て鏡の部屋に入ってみた。
毎日の掃除で見慣れた部屋だったが、どこか不思議な気配が漂っている気がした。
ラップは魔法の鏡を覗き込んだ。
いつもと変わらずラップの姿を写している。
鏡の手前の台座に、ラップはそっと手のひらを押し付けた。
「あ…。」
そこには何か、力の余韻が残っていた。
ラップは目を閉じて、ありのままを感じとろうとした。
それは鏡を見る者の頭に直接働きかけるような力だった。
きっとあの少年の持っていた短剣に、この力が宿っているのだろう。
『魔力の宿った短剣なんだ。あれは魔女からもらった物だろうか。』
少年は知っているだろうかとラップは思った。
今すぐ追い掛けて、もっと話を聞きたいと思った。

だがすぐに考え直した。
魔法が使われていると知っていたら、人々は巡礼を歓迎しないのではないか。
でも宿屋では巡礼の旅人を縁起が良いと言っていた。
彼らは成人の儀式として世界中を回る少年たちを応援しているのだ。
きっと鏡を見るときに魔法を使っているなんて知らないに違いない。
少年だって、ただ不思議な短剣だと思っているかも知れない。
わざわざ聞きに行くのは却って迷惑になる気がした。

『じゃあ、元々シャリネを作った魔女は何を見たくて作ったんだろう。』
新たな疑問が湧いてきた。
そもそも魔女というのが、どういう人達なのか分からない。
『シャリネは不思議だらけだな。』
ラップは台座から手を放し、目を開けた。
すると目の前に一面の深い藍が広がっていた。
「!!」
ラップは驚いて息を飲んだ。
次の瞬間にはその光景は消えていた。元の鏡の部屋だった。
鏡を覗き込んでも、ラップの姿が見えるだけだ。
「何だったんだろう…。」
もしかして、お告げの見せるものを垣間見てしまったんだろうか。
見えた光景は何だろう。
今の出来事を伝えるため、ラップはモーリスを探して部屋を飛び出した。

ラップの見たものがお告げだったか否か、モーリスには判断出来なかった。
二人が鏡の部屋で再び試してみたときには、台座に魔力の残りはなく、何も起こらなかった。
「君はあの少年と同年代だからな。お告げが効きやすかったのかも知れん。」
「そうですね…。」
釈然としなかったが、それ以上はっきりしたことは分からなかった。
「また巡礼者が訪ねてきたら、同じことを試せば良い。そうすればわかるだろう。」
モーリスは言った。
「巡礼者でない人が試しても良いんでしょうか。」
ラップはつぶやいた。
「今更だな。君はもう試してしまったではないか。」
モーリスは笑い混じりに言った。
確かにそうだとラップも思った。

その夜、ラップはモーリスとレオに一瞬見えた藍色の広がりの事を話した。
「部屋一面にその藍色のものが広がっていたんです。何だと思いますか?」
「海かな。」
「夜の空?」
モーリスの考えもレオの考えも、いまいちピンとこなかった。
「星は見えなかったんだ。だから、夜空とは違うと思う。」
ラップはレオに言った。
「それに海は…、海ってもっと透き通っているか、緑色ではありませんか?」
モーリスに尋ねると、モーリスは苦笑した。
「船に乗って沖へ出たことはあるかな。小舟じゃなく、連絡船のような大型の船で行く沖合だ。」
モーリスの言葉に、ラップは首を横に振った。
「船に乗ったことはないです。でも、港町には…。」
ラップは言いかけて途中で口ごもった。モーリスは特に気にしなかった。
「海は場所によって様々な表情をする。砂浜と入江で違う様子を見せるように、港の中と沖合ではまた違うのだ。藍の色は深い場所で見られる色だ。素潜りの名人さえ海底にたどり着けないような外洋の色だよ。」
「海ってそんなに大きいの? 僕見たことが無い。」
モーリスの解説を聞いて、レオが興味津々で言った。
「海…、何でそんな物を見たんだろう…。」
ラップは理解できずにつぶやいた。
「お告げだろう。そのうち何か関わりがあるのではないか? そう言えば、あの少年はお告げの中身は話さないものだと言っていなかったか。ご利益が無いかも知れんぞ。」
「ああ、そうかも知れません。でも、見当がつかなかったので。参考になりました。」
ラップはモーリスに礼を言った。
深い藍色の海。
それが自分にどう関わってくるのか、ラップには皆目見当がつかなかった。

待ちわびる時間は長く感じるものだった。
次の巡礼の旅人はなかなか訪れず、ラップは修行に打ち込みながらも焦れったい日を重ねた。
ある日、モーリスが一冊の本と真新しい紙の束を抱えて城から帰ってきた。
「ヘブン、君は字が書けたな?」
居間のテーブルにそれらを積んで、モーリスはラップを呼んだ。
「はい、モーリス。」
「この本を写してくれないか。特に期限はない。」
モーリスは本の表紙をパンと叩いた。
書名に「古代魔法を紐解く」とあった。
思わず惹かれて、ラップは本を手に取った。
本の中には二種類の文字が並んでいた。
古代文字と今使っている文字だ。
「古代文字を訳した本ですね。すごい…とても勉強になります。」
「掘り出し物だ。城の書庫というのは宝が眠っているものだな。古代文字の方は分からなければ私がやるが…。」
モーリスは途中まで言いかけたが、ラップの目線が古代文字の方を読んでいるのに気が付いた。
「両方読めるのだな。」
「あ、はい。勉強の途中でしたが、対訳があるので読み易いです。」
ラップは目を輝かせて答えた。
「古代文字も書いてもらって良いかな。」
「やらせてください。」
いつになく熱心な返事にモーリスは苦笑した。
「わかった。全部任せる。だが、ここに載っている魔法を試したいときは必ず私に断るのだぞ。まだ危険がないかどうか分かっておらんからな。」
「分かりました、モーリス。」

本の写しが完成するまでに、そう長くはかからなかった。
最初の数日は書写をせずに読みふけっていたに違いないとモーリスは思ったが、読み終えたあとラップは熱心にページを書き写した。
写本の出来もまずまずだった。
「実はなヘブン、城の書庫で古くなった本を新しく書き写す作業が始まったのだ。」
モーリスは書き上げられた本を検分しながら言った。
「はい。」
ラップは相槌を打った。
「明日から一緒に登城して欲しい。人手が足りなくてな。」
モーリスは顔を上げて言った。
「えっ、シフール城に?!」
ラップはモーリスの予想通りの反応をした。
「この出来なら十分だ。頼むぞ。」
行きたいか否かは尋ねられなかった。ラップは仕方なく頷いた。
「わかりました、モーリス。」
不安を隠している様子を目に収めても、モーリスは気づいた素振りをしなかった。
「あと、これはこの写本の代金だ。」
モーリスはまとまった額のコインをラップに差し出した。
「え?」
ラップは驚いてモーリスとコインを交互に見た。
モーリスはにやりと笑った。
「この本は私個人の注文なのでな。君もそろそろ、先の事を考えても良いだろう。私が教えることも、もうそれ程多くない。」
モーリスはラップの手を取ると、コインを握らせた。
それはラップにはとても重く感じられる量だった。
「今度の仕事でも、いくらか蓄えを持てるだろう。大事に使いなさい。」
「ありがとうございます、モーリス。」
ラップは幾つもの有りがたみが一気に押し寄せてきて、感謝の言葉を述べるので精一杯だった。
それに、モーリスが修行明けのことを口にしたのも初めてだった。
「城で書き写すのは歴史書ばかりだ。期待するなよ。」
モーリスが軽口を叩いた。ラップは笑って頷いた。

シフール城は、シフールの町を通り抜けた先にある。
翌日、ラップはモーリスと共に初めて登城した。
城の人々の目線は、町の人々よりも険しいものに見えた。
ラップはモーリスの数歩後ろに付き従って歩いた。
写本に当てられた部屋には、大人ばかり七~八人が集まっていた。
「これはまた若い助っ人だな。」
彼らはラップを見ると口々に言った。
「弟子のヘブンです。これでも古代文字まで書けます。」
モーリスが請け合った。
「よろしくお願いします。」
ラップは会釈した。
「早速始めてもらおう。皆さんは続きを。君は一冊本を取ってください。」
責任者と思しき男がテーブルに積み上げられた古びた本を指して言った。
ラップは適当な本を取り、早速仕事に取り掛かった。

休憩時間が来る頃には、ラップの作業が大人たちの足を引っ張らないことが明らかになっていた。
「これは十分書記で食べていけるぞ。」
ラップの書いた紙を手に取り、他の参加者が品定めした。
「ありがとうございます。」
ラップは戸惑いながら答えた。
好きな魔法の本を写しているのと違ったので、褒められても実感がなかった。
「モーリスさんの弟子ってことは、君も魔法を使うのかい?」
単刀直入に聞かれて、ラップは表情をこわばらせた。
チラリとモーリスの方を見たが、あいにく席を空けていた。
「……はい。」
小さな声で返事をする。
「ふーん。魔法なんてさ、使わなくてもやっていけるんじゃないかい?」
相手の男は写本の紙をひらひらと振ってみせた。
「どうでしょう。僕には小さな頃から魔法は身近なものだったんです。」
「そりゃ大変だったな。村八分にされなかったか。」
モーリスが席に居ないから、こんな大胆な事を言えるのだろう。
ラップは悲しさがこみ上げてきた。
ラップが黙り込んでしまったので、男はさすがに言い過ぎたと気付いたらしい。
「ああ、悪かった。すまん、すまんな。」
男はそそくさと自分の席に戻っていった。

写本の仕事は、楽しくもあり、つまらなくもあった。
作業に携わっている者たちのおしゃべりは、13歳のラップには分からないことが多かった。
モーリスの他には魔法使いもいなかった。
城へ来ている間に、一人巡礼の旅人が来たとレオが教えてくれた。
鏡のお告げを確かめるのは、またお預けになってしまった。

ある日、町で声を掛けられたという旅人が写本の手伝いにやってきた。
モーリスの、マントに杖を携えた姿に、その男は大層驚いた様子だった。
「いやあ、びっくりした。医者でもないのに町に住んでいる魔法使いがいるんだね。」
男はモーリスに話し掛けた。
「シフールの方々は心が広い。城で働かせてもらって一年になります。」
モーリスは慎重に答えた。
「うん、あんたは幸せ者だと思うよ。俺はメナートから来たんだがね、あっちじゃ春先に人買いの一味が捕まってね。そいつらの首謀者が魔法使いだったんで、今はちょっと警戒されてるねえ。」
「それは物騒ですな。」
モーリスの声はますます慎重になった。
「ひどい話でね。仲間同士で内輪もめを起こして、一人焼き殺されちまったのさ。港で待ってた下っ端たちが、親分が戻って来ないもんだからウロウロしてて、それで一網打尽ってわけだ。」
「怖いねえ。」
「クズ共だな。」
周りで聞いていた大人たちが口々に言った。
「だろ? しかもさ、仲間を殺した奴は高跳びして逃げちまったらしいんだ。何処かでのうのうと生きてると思うと怖い話だぜ。」
男は皆の注目を集めて得意げに話した。
「ま、こちらの旦那みたいに大人しい人なら安心だけどね。」
男は最後に取って付けたようにモーリスを持ち上げて話を締めた。

カランとペンが床に転がる音がした。
「おや、どうした坊主。」
話をしていた男は、ラップが食い入るように自分を見ているのを見つけて尋ねた。
「ヘブン?」
モーリスは眉をひそめた。顔から血の気が引いているのがわかった。
口元がブルブルと震えていた。
「具合が悪くなったようだ。皆さん、ちょっと失礼。」
モーリスはラップを抱きかかえるようにして作業室から連れ出した。
人の気配のないバルコニーへ出ると、モーリスはラップを座らせた。
「どうした?」
尋ねても、ラップの返事はなかった。
ふと閃くものがあった。
「……今の話。あれは、君なのか?」
モーリスは重ねて尋ねた。
ラップは顔を上げて小さく頷いた。
「人買いの一味だったのか?」
小さな声で尋ねると、ラップは強く首を横に振った。両目から涙が溢れてきた。
「違います!」
搾り出すような声で、ラップは答えた。
モーリスはその答えに安堵した。
「わかった。何かの間違いなのだな。噂に尾鰭が付いたのだろう。」
モーリスの声は優しく、そこに疑いの気配は一切なかった。
ラップはうつむいた。
「ぼくはもう、ここには居られません。」
覚悟を決めたような声でラップは言った。こんな声を、前にも聞いたことがあるとモーリスは思った。
『最初に会った時だ。』
モーリスは思い出した。
自分の名前を名乗ることを拒否したとき、こんな思い詰めた声だった。
あの時も今も、自分の罪を一人で背負い込もうとしている。それはあまりに健気な姿に見えた。
モーリスはラップの両頬に手を当て、自分の方を向かせた。
「修行はまだ終わっておらん。出て行くことは許さんぞ。」
モーリスが言うと、ラップは大きく目を見開いた。信じられないという表情だった。
「前にも言ったな。罪を犯したようだが、悪事を働いたのではないだろうと。心にやましいことがなければ、逃げ隠れる必要はない。いや、逃げてはいかん。」
「ですが……。」
「君が魔道師として生きるつもりなら尚更だ。人と共に生きても、我々に望まれる事はそれ以上だぞ。悪人を捕まえるだけではない。裁く事を求められることもある。」
言外に匂わせた含みに、ラップはちゃんと気付いたようだった。
「人を裁く……。」
少し震えたつぶやきに、モーリスは大きく頷いて答えた。
「そうだ。正しく裁いたと言われようと、心に残るのは罪の重さだ。それは一生ついて回る。逃げたところで逃げ切れるものではない。」
モーリスは心から言った。詳しく話さなくても、その言葉が経験の裏打ちから出ていることは伝わると思った。
「君が平然としていられないなら、再びその禁を犯さないための努力をすることだ。安易な解決のために裁かない。更生に力を貸す。出来る事はいくらでもある。それが償いだと私は思うよ。」
「わかります。逃げていては何も変わらないんですよね。わかりますけど……。」
言葉は途中で勢いを失い、ラップはぎゅっとモーリスにしがみついた。

涙が引いてから、ラップはモーリスと作業室に戻った。
「大丈夫か、坊主。」
他の男たちが聞いた。
「すみません。人を焼き殺すなんて、想像したら気分が……。」
ラップがさも嫌そうに言ったので、旅の男は謝った。
「子供の前で言う話じゃなかったな。すまん。」
「いえ、僕こそすみませんでした。あの、今日はここまでで終わらせてください。」
ラップは責任者に向かって頼んだ。
「そうしなさい。ゆっくり休んで、また明日頼むよ。」
「坊主の分は俺が頑張っとくからな。元気になれよ。」
「はい。ありがとうございます。」
ラップは深く頭を下げて部屋を出た。廊下に出ると心底ホッとした。

シャリネに戻り、レオに気分が悪いとことわって部屋で横になっていると、話し声が聞こえてきた。
「鏡の部屋はここです。僕が案内出来るのはここまでですけど、あとのやり方は分かりますか?」
レオの声だった。
『巡礼が来たんだ。』
待ち望んでいたはずの巡礼者だったが、今はお告げを見たいような気分ではなかった。
だが、巡礼者が扉を閉める音がすると、レオがラップの部屋をノックした。
「ヘブン、巡礼の人が来たよ。」
「ああ、ありがとう。」
事情を知らないレオを心配させたくなくて、ラップは起き上がった。
「またお告げが見えるといいね。」
「うん。」
辛い記憶を呼び起こされた直後だけに、それに関連した物を見るのではないかと不安が募った。
巡礼者が帰るまでの短い間、ラップは目を閉じて心を落ち着かせた。

魔力の残る鏡の部屋で、ラップは台座に手を置いて目の前の鏡を見つめた。
瞑想のお陰で心の中は空っぽだった。
しばらくの間、何も変化はなかった。
『無理だったかな。』
そう思い始めた頃、不意に辺りが眩く光った。
ラップは青い空に浮かんでいた。いや、まるで鳥のように飛んでいた。
眼下にはあの藍色があった。それは一面に広がる海だった。
ラップは何かを目指すように一目散に飛んでいる。
『何処へ行くつもりなんだろう。』
疑問を抱いた直後、映像はまるで途切れるように掻き消えた。
ラップは大きく息をついた。
相変わらず何のお告げかは分からない。だが、広い世界だとラップは感じた。
悩みも苦しみも、そこでは小さいもののように感じられた。
『今日の事で、くよくよするなって言われたみたいだな。』
ラップは少し元気になって鏡の部屋を出た。

夕方、ラップは帰ってきたモーリスに再びお告げを見たことを伝えた。
「そうか。身体はどうだ、治ったか?」
モーリスの心配は昼間の事の方にあった。
「大丈夫です。心配を掛けました。」
ラップは答えた。
事実、噂を聞いた直後よりも大分落ち着いていた。
「ヘブン、君の修行明けについてだが。」
モーリスが切り出した。
「えっ?!」
聞きつけたレオが声に出して叫んだ。
「春になったら好きにするといい。その頃に確か14歳になるのだろう?」
モーリスの言葉にラップは答えた。
「誕生日はわかりませんが、来年14になるのは確かです。」
「ヘブン、どこかへ行くの?」
レオが尋ねた。
「旅に戻ろうと思っているんだ。修行が終わったらね。」
ラップは答えた。
「いつ終わるの?」
レオはラップとモーリスを交互に見た。
「冬を一人で越すのは大変だからな。春までここに居たら良い。魔法の技量なら教えることはもう殆どない。あとは一人で生きていく心構えと言ったところかな。」
「そうですね。もっと強く、打たれ強くなりたいものです。」
ラップは考えながら答えた。

写本の作業は、冬の間中続いた。
あの旅の男も腕前を買われて作業の仲間になった。
魔法のことが話題になることはあったが、ラップは当たり障りなく切り抜けるようにしていた。
巡礼の旅人は、あれから来なかった。たった三人の、寂しい巡礼の季節だった。

少し寒さの緩み出した頃、ようやく写本の作業が終わった。
再びシャリネで過ごすようになったラップは、レオを伴って森へ薪拾いに出るようになった。
獣の付けた幹の傷や、新しい糞を見つけたら引き返すこと。
気を付けた方が良い獣の声、魔獣の声の聞き分け方など、たくさんの注意を教えた。
「木に登ってかわせる時はいいけど、空に浮かぶ魔獣は一目散にシャリネや町へ逃げること。」
「うん。それはよーくわかってる。」
レオは苦笑いをした。

出発と決めた前日、新しく注文した服を受け取りに、ラップは仕立て屋を訪れた。
今度の服は自分のお金で仕立てたものだった。
写本の仕事はまとまった賃金になり、旅の支度も満足に整えることが出来た。
「やあ、出来てるよ。」
仕立て屋の主人は真新しい服を出してきて見せた。丈夫で少し大きめの、長持ちしてくれそうな服だ。
ラップは代金を支払って服を受け取った。
「ついでにこれを持って行ってくれるかい。モーリスさんの注文なんだ。」
仕立て屋は一抱えある包みをラップに渡した。
「分かりました。親方、いろいろお世話になりました。」
ラップは今までの礼を言って仕立て屋をあとにした。
市場で干した果物やビスケットを手に入れ、ラップはシャリネへ戻った。

「モーリス、これを仕立て屋で預かってきました。」
ラップは包みをモーリスに渡した。
「おお、出来たか。」
モーリスはいそいそと荷物を受け取った。
「レオ、ちょっとこちらへ来なさい。」
モーリスは台所のレオに呼び掛けた。
ラップはその傍らで自分の荷物を詰め始めた。
着替えに非常食、ペンとインクと紙、毛布も一枚分けてもらった。
ここへ来た時、着の身着のままだったのが嘘のようだ。
「なんですか、モーリス?」
レオが居間に入ってきた。
「うむ。レオも一緒にな。」
モーリスはレオを手招きした。
「開けてご覧。」
モーリスに言われて、レオは包みの結び目をほどいた。
「うわぁ。」
レオの感嘆の声に、ラップはそちらを見た。
青い服が綺麗に畳まれて入っていた。モーリスがそれを取り上げた。
服はレオの身長ほど長く、袖はなかった。上の部分が折り返しになっていて、そこに伸縮性のある幅広の帯のようなものが縫いつけられていた。
「モーリス、それは。」
ラップは驚いて言った。魔法使いのマントだった。
「修行を終えた証だ。君は杖をいらんと言うからな。せめてこれだけでも贈らせてくれ。」
モーリスはマントを持ってラップの肩に着せかけた。
「うん、上手く背丈に合わせてある。この帯で肩を包むようにして着るんだ。前で結んで。そうそう。」
モーリスはマントを着たラップを満足そうに眺めた。
ラップは自分の姿を見下ろして言葉もなかった。
「背が伸びたら、折り返しの場所を変えるといい。」
ラップは羽織のように肘の辺りまで覆っている折り返しに触れてみた。
縁取りは鮮やかな黄色が使われていた。隅には縁取りと同じ色のテープで模様が縫いつけられている。布地は厚く、暖かく、思いの外軽かった。
「こんな上質な物、僕には勿体無いです。」
ラップは言った。
「良い物は長持ちする。大事に使ってくれれば嬉しいぞ。」
モーリスは満足そうだった。
「似あうよヘブン。本物の魔法使いだ。」
レオも嬉しそうに言った。
「利き腕の肩はブローチで服に留めるといい。術を掛けるときに邪魔にならない。それにしても一人前の魔道師に見える。杖を持たないのが勿体ないな。」
モーリスは目を細めた。
「ありがとうございます。何てお礼を言ったら良いか。」
ラップは嬉し涙をこらえて言った。
「礼には及ばんさ。だがお礼代わりにひとつ聞いても良いかな。」
モーリスが言った。
「何でしょうか。」
ラップは尋ねた。
「君の名前を知りたい。」
モーリスの言葉に、ラップは目を見張った。

「えっ?」
レオが戸惑った顔をしてモーリスを見た。
「何言ってるの、モーリス。ヘブンはヘブンだよ。」
「今まで何も聞かないでくれてありがとうございました、モーリス。」
ラップはモーリスに向かって一礼した。
「僕の名前はラップです。」
ラップはモーリスの顔をしっかり見て答えた。
「ラップか。覚えておこう。」
モーリスは答えた。
「ちょっと待って! 何言ってるの、二人とも!」
会話の外に置かれたレオが叫んだ。
「レオ、僕は事情があって名乗れなかったんだ。ヘブンというのは、モーリスがつけてくれた仮の名前なんだよ。」
ラップは言った。
「仮の名前って、そんなの変だ。僕の友達はヘブンだよ。ここに住んでいたのはヘブンだよ!」
レオは言う事を聞かなかった。
ラップはレオの言葉も事実だなと思った。確かにこの一年、ヘブンという少年がここにいたのだ。
ラップにとっては仮の名でも、レオにはヘブンこそが実体を伴った名前なのだ。
『僕はラップであり、ヘブンでもあったのかな。』
初めて、ヘブンという名前が自分の一部のように思われた。
何だか嬉しかった。
「そうだね。レオの言う通りだ。僕はここではヘブンだったんだね。」
ラップは言った。
「そうだよ、これからだって、僕にはヘブンだよ!」
レオが泣きべそをかきながら言った。

翌朝、ラップは見納めに鏡の部屋へ入った。
台座も鏡もいつもと変わりなかった。
ここで見た海の風景はラップの頭に焼き付いていた。
いつか、それと関わる日が来るかも知れなかった。

シャリネの前にモーリスとレオがいた。
モーリスは自分のマントを羽織り、杖を手にしていた。
「ヘブン、これからどこへ行くの?」
レオが聞いた。
「うん。シャリネは全部で五箇所あるんだ。シフールとオルドスを見たから、あとの三箇所を回りたいと思ってる。」
ラップは答えた。
「気をつけてね。また訪ねて来てね。」
「うん。また会おう、レオ。」
名残惜しそうなレオの頭をクシャッと撫ぜてから、ラップはモーリスに話し掛けた。

「ここに住めて、貴方の教えを受けられて幸せでした。」
ラップは心から感謝を述べた。
「ラップ、これからは自分を魔道師と名乗りなさい。己に溺れず、正しい道を進むように。君が過ちに落ちる事の無いよう祈っている。」
「はい、モーリス。肝に命じます。」
ラップは深く頭を下げた。
真新しいマントが足元にまとわりついた。

顔を上げると、別れの時が来たのだとわかった。
「では、参ります。」
ラップは二人に告げた。
「うむ。」
モーリスは小さく頷いた。
「元気でね、ヘブン。」
レオが言った。
ラップも頷き返した。

シャリネからシフールの町に続く道へ、ラップは歩みだした。
曲がり角で振り返ると、レオが手を振っていた。
手を振り返すと、ラップは旅人の心持ちで、歩き慣れた道を進み始めた。

(2010.6.6)

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