それぞれの明日へ
「ちょっと、行ってくるわ。」
プラネトスII世号の甲板。
船長室から出てきたトーマスは、副長のルカと魔道師のミッシェルに向かって片手を上げた。
「はい?」
純粋に疑問顔を浮かべたミッシェルの隣で、副長のルカは顔をしかめた。
「キャプテン、遅くなりますか?」
冷静なトーンですれ違ったトーマスの背中に声を掛ける。
トーマスは待ってましたとばかりに振り向いた。
「朝帰りなら上出来だ。」
そして不敵にニヤッと笑って、舷側に降ろしたボートへ乗り込んでいった。
ルカが、やれやれといった表情でため息をついた。
「何か企んでいる顔でしたね。」
ミッシェルがルカの隣に立って尋ねた。
「ええ。」
ルカは苦笑いした。
「キャプテンは、ムースの港にプラネトスII世号を置きたいらしいんです。」
「ムース、ですか?」
ミッシェルは脳裏にヴェルトルーナの地図を思い浮かべた。
悪徳商人リッシュの本拠地、リュトム島にほど近い港町だ。
先だってのリッシュと海賊ラモンの悪巧みを阻止したとはいえ、彼らがこれで改心するとは思えなかった。
プラネトスII世号がヴェルトルーナに拠点を置くとしたら、ムースは確かに適切な場所だった。
「はい。でも普通に置いたら目立つでしょう。」
ルカは手近な舷側に目を走らせた。
プラネトスII世号の船縁は白い塗料で塗られていて、一度見たらなかなか忘れられない姿をしているのだ。
船員の誰もが胸を張って彼女を誇りに思っているが、隠密行動を続けるにはそれ相当の努力が要るのであった。
それは、指揮を任されることの多かったルカが、最も身に染みていることだった。
「噂になるようじゃダメだって言うんです。それで調べてみたら、ボザールのルプシャ女史がプライベートの桟橋を持っているってわかりまして。」
ルカの視線は、海の上を滑るように走り出したボートに流れた。
つられてミッシェルも、ボートに乗り組んだトーマスを見やった。
船長だというのに水夫と変わらない服を着て、何か起きれば真っ先に現場へ行きたがる。
今もその後ろ姿は心もち浮かれているように見受けられた。
「それでボザールへ直談判に行くんですか。」
感心したような、あきれたような口調でミッシェルが言った。
「ルプシャさんとは、リュトム島で顔を合わせていますよね。変装していた事を、どう説明するつもりなんでしょう。」
ボザールのルプシャ女史はリュトム島に招待された一人であった。
ジャック・スレイドに成りすまして潜入したトーマスは、彼女に顔を見られているはずだった。
「何ヶ月も前だから大丈夫だとか、自信があるとか言っていました。でも朝帰りなんてとんでもないです。」
ルカは空を見上げて太陽の位置を確認した。
まだ午前中、一日の始まりの頃合いであった。
「夕方…いえ、夜半に戻って来なかったら、捕まったって可能性も考慮しなくちゃいけませんよね。なんと言ってもルプシャ女史はボザールの実力者なんですから。」
「…………」
真剣につぶやくルカに、ミッシェルはしばしためらった後問いかけた。
「ルカ君、ちょっと良いですか。」
「はい?」
ルカは小首をかしげた。
「朝帰りの意味、わかっていますよね?」
「え?」
ルカは目を丸くしてミッシェルを見返した。
話が聞こえていたのだろう。二人の後にいた水夫たちが、げらげらと笑い出した。
「え、え? そのままの意味じゃ……!?」
周囲の反応にあせりまくったルカは、すぐに言葉の意味するところに思い当たって、傍目でもわかるくらいに顔を赤らめた。
「魔道師さん、うちの副長にゃちょっと早いんじゃないかねえ。」
「キャプテンの秘蔵っ子をいじめないでくださいよ。」
水夫たちはミッシェルを非難したものの、その口調も表情も、この事態を楽しんでいるのに間違いなかった。
「そんなつもりではないんですが。」
ミッシェルは本気の混ざった声音で応じた。
そして、ぴたっと口をつぐんだ水夫たちを尻目に、立ち聞きする者のいない船長室の脇にルカを引っ張っていった。
いつの間にか、トーマスを乗せたボートは海岸近くへ進んでいた。
ミッシェルはルカと並んで豆粒のようなボートを目で追った。
「すみません、あんな場所で聞いてしまって。」
ミッシェルは頭を下げた。
「そんなことないです。」
ルカは、頬にまだ少し赤みが残っていたが、動揺は収まりミッシェルに向かって首を振った。
「知ったかぶりの出来ないことも有りますよ。僕も世間知らずですから。」
自嘲気味にルカは言い、後ろを振り返って水夫たちが仕事に戻ったのを確認した。
それから振り向くと、ルカは真顔になってミッシェルに尋ねた。
「僕が知っているのはガガーブの先に憧れたキャプテンです。他の事なんか一切構いもしない、ひたむきな熱意を輝かせているキャプテンです。」
ルカはそこでひと息ついた。
「以前はこういう、その…外出をする事があったんですか?」
信じたくないという表情でルカは尋ねた。
「私も、自分の目で見た訳ではありません。」
ミッシェルは正直に答えた。
ルカのこわばった表情がゆるんだ。
「ですがエル・フィルディンのあちこちで、ガガーブを越えたがっている船乗りの噂は耳に入ってきました。壮大な話を喜ぶのは港の女たちばかりで、周囲からは夢物語だと言われる。応援はされても今ひとつ真剣に取り合ってもらえない。そんな話でした。彼の有り余る熱意は……ほかに行き場がなかったのでしょう。」
「は、はあ…。」
ルカはどう相づちを打ったものかわからず、曖昧な返事をした。
十代の多感な時期を、ギアの製鉄工場と洋上のプラネトスII世号で過ごしているルカには、この手の話題はまだまだ気後れするものであった。
「私と出会ってからは、そんな事に時間を潰す暇はなくなったみたいですがね。」
ミッシェルは茶目っ気たっぷりに目配せした。
そして舷側に身体をもたせかけて、じっと海原を見つめた。
「長くかかりましたが、やっと一区切りつきましたからね。トーマスも羽を伸ばす気になったのかもしれません。」
ミッシェルの口調に、珍しく感傷的な色合いを感じて、ルカは改めてミッシェルを見つめた。
一区切り、とミッシェルは言った。
ルカとトーマスの故郷エル・フィルディンで、ヴェルトルーナの異変の可能性を知ってから6年にもなる。
予知は現実となり、つい先日までルカたちはヴェルトルーナを奔走していたのだ。
幸いにも被害は最小限に食い止められた。
いくつかの国の人々にとっては苦しい復興の道が待っているだろうが、今も大地は潤い、海は輝いている。
この世界もほかの世界も守られたのだ。
プラネトスII世号は、応援に来ていたアヴィンとマイルをエル・フィルディンへ送り返し、ヴェルトルーナへ戻ってきたところだった。
何故ヴェルトルーナへ帰ってきたのか、ルカはまだ知らなかった。
しかもトーマスは、この世界の人々にコンタクトしようとしている。
それもいささか疑問な事であった。
ルカは海を見つめている魔道師の横顔を見やった。
ミッシェルは自分の故郷ティラスイールへ帰りたがっていた。
今度の異変の顛末を見届けたとき、彼は自分に出来る事を見つけ出したのだ。
ティラスイールに魔法使いの修行の場を作りたいと言っていた。
それは素晴らしいことだと思う。
ミッシェルほどの魔法の使い手ならば、そして慎重な性格を考え合わせれば、ちゃんと秩序のある正しい魔法の使い手を育ててくれることだろう。
ルカ個人としては、ミッシェルの新たな決意を喜びたかった。
だが、プラネトスII世号の副長としては、これは困った事態だった。
プラネトスII世号が世界を飛び越えるには、ミッシェルの魔法の力が不可欠なのだ。
ミッシェルがティラスイールへ帰る事は、すなわちプラネトスII世号がヴェルトルーナから移動できなくなる事を意味していた。
トーマスがそれで良いと言ったのかどうか、ルカは知らなかった。
「ルカ君、トーマスはまだこちらにいるつもりなのですか。」
ミッシェルは海を見つめたままルカに尋ねた。
真剣な口調だった。
ルカはハッとした。
ミッシェルも何も知らないのだと予測が付いた。
「僕はまだキャプテンの心づもりは聞いていません。」
ルカは言葉を選びながら慎重に答えた。
「ですが、オアシスで始めた事業も上手くいっていますし、母港を決めると言い出したくらいですから、すぐに他の世界へ行く事は考えていないと思いますが。」
「ふむ。やはりそう思いますか。」
ミッシェルは自分を納得させるように軽く頷いた。
「あの、ラップさん。」
ルカはプラネトスII世号内で呼ばれている名前でミッシェルに声を掛けた。
「はい?」
ミッシェルはルカの方を向いた。
「ティラスイールへ帰られるんですか?」
思い切ってルカは尋ねた。
ミッシェルは口元を引き締めた。
「ええ、帰ります。自分の世界へ戻ります。」
迷うことなくミッシェルは答えた。
『あなたがいなくなったらこの船はどうなるんですか?』
心の中に突き上げてきた思いを、ルカは言葉にすることが出来なかった。
ルカの表情に切羽詰まったものを感じたのか、ミッシェルは表情を和らげた。
「今すぐに旅立つ訳ではありませんよ。とりあえず、トーマスの朝帰りとやらを待ちましょう。」
別の意味でまた固まったルカの顔を見てミッシェルは小さく笑い、海岸に目をやった。
「まあ、成功するかどうかは怪しいものだと思いますけどね。」
「帰りは遅くなるかもしれねえ。一度プラネトスII世号へ戻っててくれ。」
ボートで人気のない岸に上陸したトーマスは、漕ぎ手たちを戻らせた。
生い茂った草木を掻き分けて街道にたどり着くと、トーマスは振り返って眼下の景色を見下ろした。
そこは大きな湾で、トーマスが立っているのは三方を陸に囲まれた湾の最奥部だった。
海上に自分の城である小さな白い帆船を認めてトーマスは目を細めた。
それから、意気揚々とボザールへ向かって歩き始めた。
「ここはルプシャさんのお宅だよな。是非お会いしたいんだが、取り次いでもらえるかい?」
ボザールに着いたトーマスはまっすぐルプシャ女史の屋敷へ向かった。
呼び鈴を鳴らすと、若いメイドが応対に出た。
「はい、ただいま。……っと、お名前を教えてください。」
船乗り姿のトーマスに驚いたと見え、少し頬を赤らめて聞いてくる。
『んー、俺もまだまだ捨てたもんじゃないな。』
そんな満足感を覚えながら、トーマスは答えた。
「俺はトーマス。プラネトスII世号のキャプテン・トーマスだ。」
すぐにトーマスは家の中へ通された。
広い玄関ホールを通るとき、ルプシャ女史の私設自警団の者が数人、脇のテーブルでカードに興じているのが見えた。
待機番らしく、ちらりとトーマスに向けられた視線はかなり鋭いものだった。
トーマスは気付かない振りをして男たちの視線をやり過ごした。
ルプシャ女史の部屋は、落ち着いた調度品の置かれた古めかしい部屋だった。
奥の事務机に部屋の主が座っていた。
「初めまして、ルプシャさん。プラネトスII世号のキャプテン・トーマスだ。」
トーマスは帽子を取って胸元に置いた。
帽子の中に巻き込んでいた長髪が背に広がると、ルプシャ女史がはっとして立ち上がった。
「初めてかしら? 以前、危ないところを助けていただいたわ。」
ルプシャ女史の言葉は穏やかだったが、トーマスを見つめる視線は鋭く容赦なかった。
「さあ、覚えていないね。」
トーマスはとぼけた。
「海賊に絡まれたところを助けていただきましたわ。命の恩人の顔を忘れたりいたしません。ジャック・スレイド様。」
ルプシャ女史は追求の言葉を重ねた。
「俺には誰のことだかわからねえな。」
トーマスはしらを切り通した。
ルプシャ女史がにこりと笑った。
「あら、お友達でしょう? あなたとジャック・スレイド様。」
「…………」
言われてみればそういう話を作っていたような気がした。
「彼に伝書鳩で呼び出されてバンケット号を救いにいらしたのではなくって?」
トーマスは舌打ちしたが、後の祭りだった。
「……参ったな。すげえ記憶力だ。」
トーマスはあっさり降参し、肩をすくめた。
「うそを重ねるものではなくてよ、船乗りさん。偽りはいずれ暴かれるものです。」
ルプシャ女史は言った。
「私、ブロデイン王国のジャック・スレイド様へお礼状をしたためましたの。なんと言っても命の恩人ですものね。そうしたら、行き違いがあって参加は叶いませんでしたとお返事をいただきました。あなたが名前を偽ってリュトム島にいたことはとうの昔にわかっていたのよ。」
「そうか。」
トーマスの声音が幾分硬くなった。
しかし、心の内ではトーマスは安堵していた。
本音で話せる方が遙かにトーマスの流儀に合っているからだ。
「キャプテン・トーマスとおっしゃったわね。貴方は、リッシュが海賊と組んで事を起こそうとしたのを知っていらしたのね。」
確認を求めるようにルプシャ女史が尋ねた。
「まあな。海賊共が妙な動きをしているのは判ってた。」
トーマスはまっすぐルプシャ女史を見て答えた。
「何故リュトム島で、私たちに本当のことを話さなかったのですか。」
「俺はこっちの世界の人たちとは最小限の接触しか持ってこなかった。俺の船のことは、白い幽霊船と噂されているくらいだ。そんな輩が皆さん危険ですよと言い出したとして、あそこにいたお歴々が信じますかね。」
トーマスは言った。
「それに、リッシュとラモンが何かやらかすだろうと予想はしたが、何をしでかすのかはぎりぎりになるまで判らなかった。諜報専門の外交官として入り込まなきゃ、大使から離れて自由に動けなかったし、探り出すことも出来なかったんですよ。」
トーマスは雄弁に語った。
元々話すことは好きなタチで、先程のように偽りで塗り固めていなければ、いくらでも言葉がわき出してくるのだった。
ルプシャ女史はトーマスの言葉を黙って聞いていたが、やがて言った。
「お話は大体わかりました。一つよろしいかしら。」
「どうぞ。」
トーマスは先を促した。
「リッシュの悪巧みを阻止してくださったことは大変感謝しています。でも、その事で貴方には何か利益がおありになったの? 悪者を叩くだけのために、渦中に飛び込んで来たようにおっしゃるけど、人間はそれ程お人好しになれるものかしら。」
トーマスの顔に、うっすらと笑みが浮かんだ。
「俺にも利益はありましたよ。」
トーマスは言った。
「俺はヴェルトルーナに起こる厄災の芽を摘みに来たんだ。あんな悪徳商人風情に世界中を引っかき回されて、手遅れになるのを黙ってみている訳にはいかなかったんですよ。」
ルプシャには理解できないことかも知れないとトーマスは思った。
しかしここまで来て有り体の言い訳を繕うのは善策ではないだろう。
案の定、ルプシャ女史は言葉を失った。
目の前の男が何を言っているのか、理解できないに違いない。
「まあ、全部判ってくれと言うつもりはないけどな。」
トーマスがフォローのつもりで言うと、ルプシャ女史はかぶりを振った。
「いいえ。貴方の言葉にうそはないとわかります。」
「あん?」
今度はトーマスの方が眉をひそめた。
「やっと得心がいきました。」
ルプシャ女史が言った。
「先程ブロデインのスレイド様と連絡を取ったと言ったでしょう。先日の異変の後、もう一通お便りを頂きました。それには、バンケット号の事件と同様にキャプテン・トーマスが解決に手を貸してくれたと書かれていました。そして、スレイド様に成り済ましたのもトーマスの手の者だろうから、心配に及ばないと言ってくださいました。」
「なんだ。あの御仁、意外と細かいことをするんだな。」
トーマスはブロデインの福福とした外交官を思い出した。
トーマスは過去の事情を話したりしなかったし、スレイド外交官も聞いてくることはなかったのだが、そこはちゃっかり観察されていたらしい。
「ブロデインに起こった異変は、ヴェルトルーナ全てを巻き込むほどのものだったと聞きます。貴方はそれを止めようとしていらした。偽者のジャック・スレイドが貴方ご自身だったと判った今、リュトム島での一件も理由があったのだと信じられますわ。キャプテン・トーマス、あの折には、海賊から助けてくださって本当にありがとう。」
ルプシャ女史の顔から警戒心が消えた。
「有り難い。感謝するぜ。」
トーマスもやっととびきりの笑顔を浮かべることが出来たのだった。
ルプシャ女史は机の上にあった小さなベルを鳴らした。
澄んだ高い音が部屋に響いた。
「お呼びでしょうか。」
部屋に入ってきたのは先程のメイドだった。
ルプシャ女史はトーマスに言った。
「お昼をご一緒にいかが?」
「ああ、いいね。」
トーマスは答えた。
ルプシャ女史はメイドに何事か命じた。
メイドが出て行くと、ルプシャ女史はトーマスを別室に案内した。
数人で一杯になりそうな、プライベートな食堂だった。
二人が席に着くと飲み物が運ばれてきた。
「言い訳をするためにいらしたのではないでしょう? ご用件を伺うわ。」
ルプシャ女史の口調は、町の実力者のそれになっていた。
「ああ、それなんだが、ペニソラのムースにあるあんたの波止場を使わせてもらえないかな。」
トーマスもまた、単刀直入に希望を言った。
「我が家の波止場をですか?」
ルプシャ女史は顔をしかめた。
「普通に港に停泊できない理由は何かしら? 海賊を恐れての事?」
何気なく言ったのだろうが、海賊を怖がると言われては、トーマスは頷けなかった。
「恐れてなんかいない。だが警戒はする。ラモンは侮れない奴だ。リュトム島の騒ぎの頃、ムースいやペニソラは奴の支配下にあったようなもんだった。万一の事を考えると、奴らが手を出せないしっかりした場所が必要なんだ。」
「確かに私の所は警備をしていて海賊の言いなりになどならなかったわ。」
ルプシャ女史はそこで言葉を切った。
山盛りのサラダとスープが運ばれてきた。
「でも、貴方と関わりを持つと襲われるようになるのかしら? それに、キャプテン・トーマスと言えば正体を現さない事で有名ね。何故今になって私などの所に現れたのかしら。」
トーマスは早速サラダをほおばりながら考えた。
どこまで話すか。
どこまで話しても大丈夫なのか。
『見極めてからだよなぁ……。』
一目見て全幅の信頼を寄せるというような人物ではない。
発想が飛びがちだし、丸め込むのも案外たやすい。
つまり情報は漏れがちだし、いつ寝返るとも限らないという事だ。
『まあ、だから可愛いんだけどな。』
「あんたに話せる事は全部話す。それでいいか?」
トーマスは言った。
「話せないこともあるという訳?」
ルプシャ女史が少し声を尖らせた。
「ラモンとのなりそめなんか聞きたくないだろ。奴と俺はこの何年かライバルでね。痛手を被ったこともあるんだが、リュトム島では奴に一泡吹かせてやった。今のところ向こうが仕掛けてくる兆候はない。波止場が襲われる危険についちゃ、安心して良いぜ。」
「そうですか。」
ホッとした様子を見せるルプシャ女史に、やはりなにもかも話す訳にはいかないとトーマスは確信した。
「俺はムースで貿易を始めたいんだ。」
トーマスは訴えるまなざしでルプシャ女史を見た。
「貿易?」
突拍子もない言葉が出てきたと思ったのだろう。
ルプシャ女史はオウム返しに尋ねた。
「ああ。オースタンのオアシスのバザールを知らないか。アレは俺が始めたんだ。」
トーマスが言うとルプシャ女史は頷いた。
「聞いたことはあるわ。セルバートの人たちも足を運ぶことがあるのだそうね。」
「そうそう。人気のなかった砂漠にも賑やかな場所が出来たってわけだ。これから、もっと手を広げていきたいんだよ。だからまず俺にふさわしいスポンサーを探してるってわけだ。」
「……お上手ね。」
まんざらでもない様子でルプシャ女史が言った。
「でもヴェルトルーナで商売を広げたいなら、メリトスグループに接近するのが定石ではないこと?」
「俺はカヴァロの女傑は嫌いだね。」
間髪を入れずにトーマスは答えた。
ルプシャ女史が目を丸くした。
「いや、だからだな……」
感情をあからさまにしたことに気付いて、トーマスは頭を掻いた。
「あちらさんは新聞社も持っててな。キャプテン・トーマスの大活躍を記事にしてくれるのは良いんだが、俺にインタビューを迫って来るわ、追いかけ回すわ、さんざ閉口してるんだ。」
トーマスの言葉に混じりけのない本音を感じ、ルプシャ女史は笑いをこらえて目元を拭った。
「ご苦労があったようね。ムースもボザールも田舎ですけど、それで良いのですか。」
「ああ。リッシュの目と鼻の先だ。あの悪徳商人が簡単に改心するとは思えないしな。睨みを効かせるには良い場所だろう。それに、荷物を陸沿いにボザールへ運べば、あんたの収入にもなるだろうし、町の活気付けにもなると思うぜ。」
「リッシュはとても大人しくしているといううわさよ。ヌメロスの軍政に卸した品物の代金が殆ど回収できなかったみたいね。」
「そりゃあいい気味だ。願わくばずっと大人しくていてもらいたいね。」
二人は、毛皮に埋もれた悪徳商人の渋い顔を思い浮かべて笑い合った。
「ところで、トーマスさん。」
あらかた食事を終えた頃、ルプシャ女史が尋ねてきた。
「ん?」
「さっき貴方はこちらの世界と言ったけど、それはどういう事?」
ルプシャ女史の言葉にトーマスは目を細めた。
やはりこの女を選んだのは正解だとトーマスは嬉しくなった。
「俺たちはヴェルトルーナの者じゃないんだ。」
「えっ?」
半信半疑のルプシャ女史に、トーマスは真顔で続けた。
「大蛇の背骨の向こうにも世界は広がっているんだ。あの山脈のてっぺんから見下ろすと、向こうの大地は大きな裂け目で二つに分かたれている。俺は西側のエル・フィルディンから来た。船には東のティラスイールから来た奴もいる。」
「………」
今度こそ本当に言葉を失ったルプシャ女史に、トーマスは語った。
「俺の夢は、自分の船でガガーブの裂け目を越えることだった。その夢を叶えてくれた大事な仲間が、やっと自分の夢を見つけたんだ。俺はそれを叶えてやりたいんだよ。きっと困難な道だ。心の支えにもなりたいし、経済的な心配をしなくて済むようにも支えたいんだ。」
トーマスはポケットから赤い石の付いたペンダントを取り出した。細い銀鎖と真紅の石がお互いを引き立てあって輝いていた。
トーマスはそれをルプシャ女史の手のひらに乗せた。
「俺の故郷の珍しい石だ。」
ルプシャ女史はペンダントを陽にかざして見つめた。
「ただの石ではないのね。まるで石の中で炎が燃えているみたい。」
「ああ。他では手に入らない物さ。他にもいろいろ考えてる。山を越え、海を越えて運んでくるんだ。」
トーマスと真紅の石を交互に見てから、ルプシャ女史は頷いた。
「わかりました。ムースの波止場をお使いください。それと」
ルプシャ女史はペンダントをトーマスに返しながら言った。
「珍しい品物は、私の友人たちに紹介しても良いわ。」
「有り難い。俺は海賊ともやりあう間柄だが、あんたの所には一切迷惑はかけねえ。」
トーマスは請け合った。
「ええ、そう願いたいわ。それと、ムースの村長さんに紹介状を書きましょう。波止場は我が家の物ですが、一歩出ればペニソラ公国ですからね。交易やバザールの許可は、貴方が取ってくださらないと。」
ルプシャ女史はてきぱきと言った。
「ああ、口添えしてもらえると有難い。」
「では暫く待っていてください。手紙を書いてきますわ。」
さっと立ち上がったルプシャ女史を見送り、トーマスは手のひらを広げて真紅の炎のほのかな揺らめきをじっと見つめた。
この石が女史の胸元を飾るときは、当分…いや、おそらく来ることはなさそうだった。
『女傑でなくても、責任のある立場の女はしっかりしてやがる。』
トーマスは渋い表情をしていた副長を思い浮かべた。
『朝帰りなんて、啖呵を切って来るんじゃなかったぜ……。』
夕刻、トーマスはプラネトスII世号に戻ってきた。
「お帰りなさい、キャプテン。」
ルカが笑顔で迎えると、トーマスは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「何だよ、気持ち悪い。いつものように嫌みの一つも言うかと思ったのに。」
遠慮なくトーマスが言うと、ルカは不機嫌な顔になった。
「いいじゃないですか、素直に出迎えたって。大体キャプテンが予定より早く戻ってくるなんて、10回に1回あるかどうかなんですよ。」
「ああ、わかったわかった。」
トーマスはルカの抗議をさえぎった。
「ルカ、ラップを呼んで一緒に船長室へ来てくれ。」
トーマスはそう言うと上甲板の船長室へ向かっていった。
「はい! すぐ行きます!」
ルカの弾んだ声が後から飛んできた。
「お帰りなさいトーマス。早かったですね。」
船長室に入って開口一番ミッシェルがそう言うと、トーマスは魔道師を睨み付けた。
ルカは内心ハラハラして二人を見ていたが、ミッシェルの方は一向に気にしている様子がなかった。
「これからの予定だが。」
トーマスは自分の寝台に腰を下ろして二人を見あげた。
「暫くヴェルトルーナに滞在するつもりだ。ムースの桟橋を借りる約束を取り付けてきた。」
「どのくらいの期間になりますか?」
ミッシェルが尋ねた。
「少なくとも、アルトスとフォルトが出場する来年の演奏会までは居るつもりだ。あとは成果次第だな。」
トーマスが答えた。
「演奏会に間に合うように、マイルさんたちを迎えに行く必要がありますね。」
ミッシェルが顎に手を添えて考え込むそぶりを見せた。
「そんなに時間はかからないだろう。ぎりぎりでいいぞ、ラップ。」
「ええ。私もそのつもりです。」
二人のやりとりを聞いて、ルカは全身が安堵するのを覚えた。
「ラップさん、これからもプラネトスII世号を助けてくれるんですか。」
ルカの言葉に、二人は注目した。
「それはもちろん。」
あっさりとミッシェルは言った。それが当たり前だという口調だった。
「トーマスの気が済むまでおつきあいしますよ。」
「ありがとうございます、ラップさん。」
ルカは感謝を込めて、深く頭を下げた。
「ルカ。」
トーマスは立ち上がるとルカが被っていた帽子を取り上げ、厳つい手でくしゃくしゃと髪を掻き回した。
「わ、何ですかいきなり。」
ルカがトーマスを睨む。
「野暮なこと聞くな。」
トーマスは一言だけ言った。
それがミッシェルに向けて言ったことを指しているのは、聞き返すまでもなく判った。
「でも…。」
「分かり切ったことだろ。ラップが来ない訳ないだろうが。」
そう言って、ニヤッと笑う。
信じ切った笑顔がとてもまぶしかった。
「ちゃんと確認を取るのがルカ君の仕事でしょう。あなたのように『信じている』で済まされては、大事な副長さんの胃に穴が開きますよ。」
隣からミッシェルが言葉を挟んだ。
「俺の副長だ。そのくらい心得てもらわないとな。な、ルカ。」
トーマスはもう一度ルカの頭を掻き回した。
「わ、わかりましたっ!」
ルカはトーマスの手から逃げるように数歩退いた。
「それで、キャプテン。ヴェルトルーナで何をされるんですか?」
ルカは髪を整え帽子を被り直してトーマスに尋ねた。
「私も聞きたいですね。あなたはもう満足したのかと思いましたが。」
ミッシェルもトーマスに言った。
「俺は三つの世界を渡りながら交易をするつもりだ。」
トーマスは二人に答えた。
「ほかの世界の珍しい物を売るんだ。いい儲けになるぞ。」
トーマスが言うと、ルカとミッシェルは思わず顔を見合わせた。
普段のトーマスは儲けを気にするような男ではなかったからだ。
「懐具合を気にせずに船の部品を注文できるようになりますよ、ルカ君。」
ミッシェルが言った。
「そうですね。」
ルカが相づちを打った。
「まあそんなところだ。」
トーマスはニヤッと笑った。
「暮らすためのあれこれは気にせずに、修行場作りに専念してくれよ、ラップ。」
「えっ」
「キャプテン…」
ルカがぱっと明るい表情になった。
「トーマス、そこまでしていただくわけには…」
ミッシェルが言いかけたが、トーマスは聞かなかった。
「俺はもう決めたんだ。俺の夢に全身全霊掛けてくれたあんたに、俺も全力で応えたいんだ。それに、世界を渡り歩くと言ってもあんたの力を借りる訳だしな。遠慮しないでくれ。」
「トーマス。」
ミッシェルは言葉にならない様子で両手を差し出し、トーマスの右手を包み込んだ。
「ありがとう、トーマス。」
翌朝、ミッシェルは一人ティラスイールへ向かって旅立っていった。
トーマスとルカはそれを見送った。
「さてムースへ向かうぞ。」
トーマスは陀輪を握る。
「頼むぞ、ルカ。」
「はい、キャプテン!」
ルカは前甲板に飛び出した。
「総員展帆ーっ!」
ひときわ気合いの入った掛け声がプラネトスII世号の甲板に響き渡った。
白く輝く帆船は新しい母港に向けて滑るように走り出した。
Fin
2007.5.5
後書きのような散文
私がインターネットを巡回するようになったのは、海の檻歌(PC版)をクリアした直後でした。
やっと二次創作を置いているサイトにたどり着いたら、そこでは「トーマスとアイーダ」が半ば公認カップルとして定着しているではありませんか。
(一応根拠はあって、WIN白き魔女初回版の特典「ガガーブ三部作超極秘資料集」の中で、「トーマスといい仲になる」というメモ書きがあるんですね。
あれです、アヴィンとマイルの「ホモダチ」メモみたいなもんです。)
「トーマス=海の男=あっちこっちの港にいい女たくさん」
という図式を脳裏に描いていた私は、当時ネタ出ししていたこの話を書き上げるのを断念しました。
とても、ほのぼのとした予定調和のカップルにぶつける勇気はありませんでした(笑)。
で、時が流れて、最近その書きかけネタメモを発掘したのです。
前後にルカ君とミッシェルさんのエピソードを追加したのは、PSP版での印象大幅アップの影響がありますね。
あと巡回しているサイトさまの影響も多大です。
PC版の時って、ルカ君は出てきただけで大喜びで、でも掘り下げるキャラとしてはあんまりクローズアップされてなかったですし。
トーマスとミッシェルさんは各々しっかと自分の未来を作り上げていってるんですが、ルカ君はどうなのかな。
まだ、人生の全てを決めるには早いような気がして、ともかく付いていってもらいましたが。
うん、どこで老後を過ごしているか描かれていない人は、想像するのが楽しくもあり、苦しくもありますね。
この小説の仮タイトルは「トーマス夜襲」でした。
文字通り、昼食時でなく夕食時に妙齢の女性を訪ねる設定でした。
さすがに美味しく頂いてもらう訳にはいかなかったのでタイトルを変えました。
海の檻歌のサントラ版から取ったのですが、「それぞれの~」で始まる曲が二つあるんですね。
「それぞれの未来に」と「それぞれの明日へ」。
どちらも良い場面の曲なので、聞き比べていたらなんだか再プレイしたくなりました。