母港
「トーマス、私たちの部屋は三階です。」
そう言ってラップは階段を指し示した。
彼の後ろに付いてきたトーマスとルカは、それぞれに一瞬怪訝な表情を顔に浮かべた。
ラップは二人の表情に気付く様子もなく、先に立って階段を上がっていく。
「キャプテン、僕は乗組員の部屋割りを見てきます。」
そう言ってきびすを返そうとしたルカを、トーマスは呼び止めた。
「いや、一緒に見に来い。」
トーマスは階段に一歩足を踏み出す。
「でも。」
「お前が船長の部屋を知らなくてどうするんだ。真っ先に確認するもんだぞ。」
「・・・わかりました。」
ルカはしぶしぶといった様子で、トーマスに続いて階段を上がった。
ルカは先頭に立つラップを見た。
その背中からは上機嫌な様子が伺えた。
無理もない。
彼は一年以上もの間、プラネトスII世号から離れていたのだ。
キャプテン・トーマスがテュエールに手頃な住居を見つけてくれとラップに頼んだのは半年ほど前。
ヴェルトルーナの若い友人たちの演奏会に招かれた時だった。
プラネトスII世号の乗組員たちは、陸に着いて休暇になっても帰る家のない者が多い。
故郷がこのティラスイールではないためだ。
そんな彼らも含めて共同生活できる場所を探してもらったのだ。
ラップが見つけた建物は、港町テュエールの中でも、最も海岸寄りの一角だった。
ルカは窓から外を眺めた。
窓外には真っ青な海が広がり、少し離れた港には、ルカの愛する白い貴婦人が優雅な姿を惜しげもなくさらしていた。
「まずこちらが執務室です。」
三階に着くと、ラップは海側に並んだ三つの扉のうち、中央の扉を開いた。
そこはプラネトスII世号の談話室程の広さの大部屋だった。
執務机と書棚、それにちょっとした会議の開けそうなテーブルもあった。
窓は大きく、海の輝きがまっすぐ視界に飛び込んでくる。
「おお、絶景だな。」
トーマスは嬉しそうに窓辺に近づいた。
続けて部屋に入ったルカは、執務机の背後の壁に掛かった大きな地図に目を留めた。
「あ・・これは。」
思わず数歩近寄って、まじまじと見つめる。
「何だ?」
振り返ったトーマスが、ルカの視線の先にある物を見つけて目を見張った。
「おいラップ、これどうしたんだ。」
トーマスは地図の前に歩み寄り、細かく描かれた地形を目で追う。
丈夫そうな新しい紙に描かれたそれは、世界中を探してもここにしか存在しない地図だった。
中央付近を東西に横切る山脈は、地図の右端では多島海となって複雑な海岸線を成していた。
反対に山脈の左端は途中で海岸線が途切れ、その先はかなりの部分が空白のままであった。
地図の下半分は、山脈の裾野に平地が広がり、南には内海があって更に南側は対岸の大地となっていた。
特筆すべきは山脈の上半分だった。
山脈の上方に広がる大地の真ん中はまっすぐな亀裂であり、この大地を東西に分断していた。
そう、ガガーブと大地の背骨によって分かたれた三つの世界が、この一枚の地図にまとめられていたのだ。
「描いてみました。」
ラップが答えた。
トーマスとルカは揃って目を丸くした。
「時間もありましたし、航路探索は私も手伝いましたからね。」
「だからって、よくもまあ・・・」
トーマスは地図の右端、複雑な多島海の細い水路を一筆書きのように指でたどった。
斜め後ろから覗き込んだルカには、それが自分たちの見つけ出した世界を越える航路だと分かった。
「あなたの部屋にふさわしいと思いまして。」
トーマスを見つめるラップの表情は、満足そうに微笑んでいる。
「ええと、部屋の様子は分かったので、僕は下へ行きますね。」
ルカが言った。
先程から微妙にこの場にそぐわない気がしていた。
ここは席をはずすべきだというのが、冷静な判断に基づくルカの結論だった。
「ああ。」
トーマスは半ば上の空で返事をした。
「ルカ君の部屋はどうしますか?」
ラップが二人に尋ねた。
「この三階でもいいですし、下にも部屋はあります。」
「そうだな。ルカが決めていいぞ。」
トーマスが今度は振り返って言った。
ルカは小さく笑みをこぼした。答えは決まっていた。
「僕は下でいいです。乗組員の皆さんと気軽に交流できそうですし、この階にいるとキャプテンのお酒に付き合わなきゃならないですからね。」
トーマスは肩をすくめて笑った。
「それじゃ、案内します。」
ラップは先に廊下へ出る。
「キャプテンの荷物も運んでもらいますね。」
ルカはトーマスに言い残した。
「ああ、頼むぞ。」
ルカとラップに声を掛けて、トーマスは再び地図に向き直った。
『こんな物を作る時間があったのか。』
トーマスは地図に指を這わせながら思った。
地図は十分実用に耐えるものだった。
ラップがどれほどの時間を費やしたか、計り知れない。
『この世界で魔道師を育てたいと言っていたが、思うように進んでいないのか?』
トーマスの指先はティラスイール、この港町テュエールをなぞる。
この屋敷に修行中の者が生活していると聞いたが、ほんの数人だという。
一年で数人の賛同者というのは、決して満足できる数ではないだろうとトーマスには思われた。
自分たちを迎えてからのラップの浮かれたような様子も合わせて、トーマスは手放しで喜べないものを感じていた。
やがて、ラップが一抱えの荷物を持って上がってきた。
「トーマス、こちらの寝室をあなたが使ってください。」
ラップは執務机の近くの扉を押し開いた。
「続き部屋か。」
トーマスが地図の前を離れて寝室を覗き込む。
さほど広くはないが、ベッドの側には酒瓶を収納するラックが置いてある。
部屋の主の習慣を熟知したしつらえに、トーマスはにやりと笑った。
「ってことは、反対側があんたの寝室か?」
トーマスは執務室の反対側を振り返る。
こちら側と同じように扉があった。
「はい。先に使わせてもらっています。」
ラップは持ってきた荷物をトーマスの部屋に置いた。
「なあ、上手くいっているのか?」
執務机に体重ををもたせかけて、トーマスはラップに尋ねた。
何のことを尋ねているか、ラップはすぐにわかったようだった。
表情が少しばかり曇る。
「まあまあです。」
予想通りの返事が返ってきた。
トーマスは無意識に机を指で叩いた。
トントンと小刻みに鳴る音が、納得できないと告げていた。
「やはり皆さんがいると、家の空気が変わりますね。」
突然ラップが言った。
何を言いたいのかと、トーマスは眉をしかめた。
「プラネトスII世号に乗っていた間は気付かなかったのですが、あの船の空気はエル・フィルディンのものなんですね。」
ラップはまっすぐトーマスを見つめた。
「今ははっきりとわかります。またあなた方と暮らせて嬉しいです。」
言いたい事を言って、ラップはひとつ会釈すると、そそくさと出て行った。
まるで言い返されるのを拒んでいるような、そんな素早さだった。
尤も、トーマスに言い返す言葉はなかった。
再会を素直に喜ぶラップの言葉は嬉しかった。
だがそれは、彼の世界が息苦しいと告げられたことでもあった。
トーマスの返事を待たずに出て行ったのは、ラップが苦しさを自覚している証だろう。
そして追求されたくないという意思表示でもあるのだろう。
「ったく。」
見守るべきか、口を挟むべきか。
すぐに結論の出ない難題に、トーマスは頭を悩ませることになったのであった。
2009.9.25
本当ならもっとラップ側の設定を煮詰めてから書くべき内容なのですが・・・。鉄は熱いうちに打て。煩悩は熱いうちに吐き出せ。というわけで、テュエールに根城となるお屋敷を構えてみました。
あとで大幅に加筆修正することが無いように祈るばかりです。
プラネトスII世号の皆が陸の生活を味わうための家であり、ラップがひっそりと始めた修行場であり、貿易が軌道に乗ってからは商いの場にもなるであろうお屋敷です。
普段は人の少ない屋敷で、魔道師の卵たちが学び、実践し、時には港の仕事も請け負ったりしながら暮らしているかなと思います。船が戻ってくると人で溢れて、修行はお休みになるのかな。いずれその他大勢でなく、そこそこ重要なキャラクターでここに住む人も現われるでしょう。
ラップとトーマスの距離は、まだ手探り状態です。少し離し過ぎたかな、とも思います。でも、ラップには自分でいろいろと乗り越えてもらいたい気持ちもあるんですよね。