「トーマスさまぁ。お酒空っぽになっちゃいましたぁ~。」
「トーマスさまぁ。お酒空っぽになっちゃいましたぁ~。」
甘えた顔で肩にもたれかかってくる若い女性を、トーマスは、いたわるような仕草でそっと押し戻した。
娘はそのやんわりした拒絶に気付くことなく、空のコップを両手で包むように差し出している。
「そんなに飲むと家に帰れないぞ、リメーン。」
トーマスは娘に向かって言った。
「大丈夫ですぅ。リメーンが歩けなくなったら、トーマスさまが抱っこしてくれますから~。」
娘は再び身体をトーマスの肩にもたせ掛けた。
「おい、誰が抱っこなんかするか。」
トーマスは無下に言い返す。
言ったところで酔いの回っている相手には理解してもらえそうになかった。
事実、トーマスの返事を聞いても、リメーンは笑顔を浮かべたままニコニコしていた。
「リメーン嬢ちゃん、今日は、とびっきり上機嫌じゃないか。」
側のテーブルで飲んでいる水夫仲間が声を掛けた。
「だってぇ、トーマスさまの隣でお酒を飲むの、久し振りなんですもの。」
娘は愛想を崩す。
トーマスは仲間をじろりと睨み返すと、カウンターの奥に向かって声を張り上げた。
「マスター、水をくれ。氷を一杯入れた奴だ。」
「はいよ。」
老年に差し掛かった頃合のマスターが、状況を楽しんでいるのか目を細めて頷いた。
「トーマスさまぁ。まだしばらく、お船は出港しないんでしょ?」
リメーンが甘えた声を掛けてくる。
「まあな。」
トーマスは短く答える。
『だからって、俺が暇ってわけじゃないんだがな……。』
トーマスは船長ではないが、陸の仕事に奔走するガウェインの代理としてプラネトス号を任せられている。
港にいる間に済ませておく事も数多くあったし、それ以外にもやっておきたい準備があった。ちょっと顔を出しただけの船員酒場でリメーンに捕まったのは、トーマスには予定外の付き合いだったのだ。
「お待たせ。」
カウンターの向こうから氷のぎっしり詰まった金属のコップを渡されて、トーマスはそれをリメーンの両手に握らせた。
「ほら、これを飲みな。ちょっと酔いが覚めたら、家まで送ってやるよ。」
「やだぁ、まだお酒がいい。」
娘は駄々をこねる。
「だめだ。船が港にいるからって、俺たちに仕事がないわけじゃないんだぞ。」
それに、そろそろ街路に人通りも絶える頃合だ。家の前までちゃんと送り届けなくてはならないだろう。
このブリザックの港町には、トーマスに想いを寄せる娘など数え切れないほどいる。
街を歩いて視線を感じない時などないくらいだし、酒場で熱っぽい態度の女たちに囲まれるのも慣れっこだった。
だが、海の男ばかりが集まるこの船員酒場に乗り込んでくる娘は滅多にいない。
いわゆる商売女たちは自分の縄張りから出てくることはないし、普通の町娘なら、港の奥の荒くれ男ばかりが集まるこの酒場には近寄らない。
つまりリメーンは、その滅多にいない世間知らずのお嬢さんなのだった。
「言う事を聞かないと、家に使いを出してパパに迎えに来てもらうぞ。」
渋っている娘にトーマスはダメ押しした。
「ダメ! んもう、わかった。わかったから、家に知らせちゃ駄目よ!」
パパの名前を出すと、さすがのリメーンも背筋を伸ばし、酔いの覚めた目を見せた。
「もう、トーマス様ったら冷たいんだから。でもそういうところも、ス・テ・キ……。」
若いうちには男にのぼせ上がることもある。大抵はあとで冷静になって冷や汗をかくものだ。
そんな周囲の見えていない娘をどうこうするつもりはトーマスにはなかったし、世間知らずの娘を深夜に一人で帰宅させる冷たさもなかった。
自分を見ているのか、それとも夢の中の王子様を見ているのか定かでない娘を横目に見て、トーマスは一つため息を漏らした。
港の中は灯りも少ないが、街区へ入るとそこそこ街灯もあって、規則的に並んだ石畳を見ることができた。
足元のふらつくリメーンに腕を貸してやり、二人は人通りのない街路を歩く。
「トーマスさまは、ガガーブの向こうへ行ってしまうんですか?」
リメーンがぽつりと言った。
「うん?」
不意にすがりつく腕に力が込められて、トーマスは傍らの娘を見やった。
船の上を別にすれば、ブリザックはトーマスが一番長く過ごした町だった。細い路地も、小さな飲み屋も、気さくな町の人々も、あたかも空気のように肌になじむ。
別にこの街が嫌いなわけじゃない。
ここに居たくないから飛び出すわけじゃない。
「俺の夢だからな。ガガーブの向こう側へ行きたいってのは。」
トーマスは胸を張って言った。
ほんのちょっと前までは、ただの夢だった。人から妄想だと言われることさえあった。
だが今は違う。
トーマスは今や自信を持って、世界の果てと呼ばれる海の難所に挑もうとしていた。
「やっと夢を実現させる時が来たんだ。必ず成功させるさ。」
トーマスは娘に言った。
「……。」
腕に絡み付いていた娘の手が離れた。
リメーンはトーマスの前に立ち、祈るような目付きで尋ねた。
「……帰ってきますか?」
それはまるで、二度と戻らぬ決意をした戦士を見送るようなまなざしだった。
「んー……。」
トーマスは唸った。何故そんな顔をするんだ? トーマスはまじまじと娘を見返した。
これはつまり、リメーンにはそう見えているという事ではないか。
ガガーブ越えに挑戦するのが、一方通行の危険な賭けに見えているのだ。
「心配要らねえよ。」
トーマスは娘に向けて笑った。
「俺は一人で挑戦するんじゃないんだ。頼りになる仲間を見つけたんだぜ。船の連中だって…まあ、まだガウェインの親父さんに承諾してもらってないけど、きっと協力してくれる。無事に向こう側に渡って、未知の世界を冒険してくるさ。」
トーマスは自信たっぷりに言って聞かせた。
それでも娘の表情は晴れなかった。
「おい、どうした?」
さっきまでの上機嫌が、まるでどこかへ行ってしまった様子だった。
「さては酔いが冷めてきたな。風邪を引かないうちに、おねんねした方がいいぞ。」
今度はトーマスがリメーンの腕をとって歩き出した。娘は黙ってトーマスに寄り添った。
娘の家の前に着くと、トーマスは声を潜めて話し掛けた。
「それじゃあな。あんまり船員酒場に顔出すんじゃないぞ。あそこに若い娘が行くのは感心しない。」
リメーンは神妙な様子で頷いた。
「トーマスさまの言いつけなら、守ります。」
やはり酔いが冷めてきたのだろう。酒場にいた時の陽気な声ではなかった。
「よーし、いい娘だ。」
「冒険の準備、頑張ってくださいね。おやすみなさい、トーマスさま。」
リメーンがおずおずと笑顔を浮かべて言った。
「ああ、おやすみ。」
トーマスは陽気な笑顔を返した。
「じゃあな。」
片手を上げて挨拶をすると、トーマスは振り返りもせずに港へ向かって歩き出した。
娘はその後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと戸口の前で見守っていた。
「……帰って来てください…トーマスさま……。」
やがてトーマスの姿が見えなくなってから、娘はそっとつぶやいた。
2010.9.8
書きながら、ふと疑問に思いました。氷って、貴重品? 氷室くらいしか保存方法のない世界かな、ガガーブって。意外とコルナ村の名産品だったりする?
それはさておき。すいません。大半の人に分からないキャラで。リメーンは旧4のブリザックの街のNPCです。マイルにとってのシャノンのごとく、トーマスに熱を上げる女性の一人です。確かもう一人ホルスっていう名前の熱心なトーマスファンの女性がいました。
彼女たちから見て、トーマスのガガーブ挑戦はどういう風に見えたんだろうと、そんな話を書いてみました。いや、最終的にそういう話になりましたが、トーマスが絡まれるところを見たかっただけです。ええ、タイトルは嘘を付いていません。
実は3/4書き終わる頃までは、オチにミッシェルさん出す気満々だったんです。でもそれではリメーンお嬢さんが不憫だなと思ってしまって。ふたりだけで収めました。きっと、女の勘で感じ取っていたと思うんですよ。行ったきり戻って来ないんじゃないかって。きっと本人には自覚はないんです。