帰るところ
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夕焼けが街を一面の琥珀色に染めている。
その中を、フリルがたっぷり付いたよそ行きの格好の少女が歩いていた。
白い柔かな生地を重ね、ふわりと広がったスカートの裾には黒い上品なレースが揺れている。
外出にはいささか遅い時間なだけに、少女の姿は目に付いた。
だが少女は街の人々が振り返るのも気に留めず、一軒の家の前に行き着いた。
ツァイスの街の南の外れ、この街で知らぬ人のないラッセル博士の自宅である。
そこまで何の迷いもなく歩いてきた少女は、博士の家の玄関前で初めて足を止めた。
ノックをしようと片手を胸の高さに上げ、そのままちらりと博士の家を見上げた。
窓に、早々と明かりが灯っているのを見つけると、少女は意を決したようにドアをノックした。
「はい、どなた?」
玄関のドアが開き、優しそうな婦人が出てきた。
「え……。」
少女は驚きを隠せず目を見開いた。
婦人が少女の反応に困惑した表情を浮かべた。
「あ……、あの、ティータはいるかしら?」
少女は婦人を上目づかいに見上げて尋ねた。
「まあ、ティータのお友だち? いるわよ、中へ入って。さあ、どうぞどうぞ。」
少女がティータを尋ねてきたと分かったとたん、婦人は上機嫌になった。
「いつものように工房に入ったっきりなのよ。ええと、お洋服が汚れてしまうかしら。ちょっと呼んでくるわね。」
婦人はバタバタと工房のドアに手を掛け、そこで、思い出したように振り返った。
「あなた、お名前は?」
「レンよ。服は気にならないわ。入っても良いかしら?」
レンは婦人を見て答えた。
「え? ええ…。」
年齢に不相応な気丈さに気圧されたのか、婦人はドアを開けレンを通した。
「どうしたの、お母さん?」
外のやりとりが聞こえたのか、工房のドアを振り返ったティータはそこで絶句した。
両手に持った工具がポロリと落下したのさえ気付かなかった。
「レンちゃん!!」
思わず出てしまった大声に、工房の奥にいたラッセル博士が振り向いた。
「おお、これはまた…。」
意外な人物の来訪に目を細める。
「レンちゃん、どうしたの? 今まで、どうしてたの?」
ティータがレンに詰め寄った。
ティータの勢いに、レンの後ろにいた婦人が目を丸くする。
「別にどうともしてないわ。ちょっと、相談があって来たの。」
レンは神妙な顔つきで言った。
「どうともなんて、そんなこと……すごく、心配だったんだから……。」
ティータは瞳を潤ませて唇をかんだ。
無事な姿を見た嬉しさで頭が一杯になっていた。
「よく来たのう、レン。ほらほらティータも泣くんじゃない。お母さんがびっくりしておるぞ。」
ラッセル博士がティータの頭を抱えるようにして抱き寄せた。
ティータはラッセルの胸でハッと気付いた。
お母さんに、レンがどんな子なのか聞かれてはいけない。
だからおじいちゃんは私を抱き寄せているんだ。
ティータは元気よくラッセルの胸から飛び離れた。
「だって、驚いたんだもん!」
満面の笑顔を浮かべてティータは言った。
「えへ、レンちゃんゴメンね。私びっくりしちゃった。」
「レンもちょっぴり驚いたわ。ティータがレンのことを心配してるとは思わなかったから。」
真顔でレンが言った。
「もう、本当に、嬉しいんだからあ!」
ティータは目元が熱くなるのを感じながら、レンに飛びついて抱きしめた。
「!!」
レンの体が硬直した。
「ティ、ティータ?」
おませな声音が崩れ、驚きを隠せずにレンが声を上ずらせる。
「私のお部屋に行こう!」
ティータはレンの手を引っ張って二階の自分の部屋へ掛けていった。
「何て言うか、風変わりなお友だちねえ。おじいちゃま、どういう子なのかご存じですか?」
二階へ駆け上がる二人の後ろ姿を見送って、婦人がラッセル博士に尋ねた。
「ふむ、まあな。」
博士は数回口髭を撫でた。
「両親はもういなくての。一人で精一杯生きている子じゃ。こんな時間にやって来るとは、何か相談事かもしれんのう。」
ラッセル博士は窓から外を見た。
夕焼け空に少しずつ黄昏の色が混ざり始めていた。
「まあ、あんな小さな子が一人で…。じゃああの子の分もお夕食を支度しますね。」
同じように外の明るさを見て婦人が言った。
「おお、それがいいじゃろう。どれ、わしが伝えてやろう。」
ラッセル博士は婦人が台所へ向かうのを見届けてから、ゆっくりと階段を上った。
レンとティータは並んで寝台の縁に腰掛けていた。
ティータの嬉し泣きはもうやんでいたが、赤くなった目尻や大きく上下する肩にまだ名残があった。
「もう、お話が聞ける?」
レンがティータの顔をのぞき込むようにして尋ねた。
気遣うというより、対処の方法が分からないといった顔つきだった。
「ん…うん。」
ティータはやっと普通の声を絞り出した。レンの顔から困惑した様子が消えた。
「あのね、パテル=マテルを見て欲しいの。」
レンは性急に言った。
「ふぇ?」
単刀直入に言われた言葉に、ティータは驚きを隠せなかった。
「それって、あの空飛ぶ人形…兵器……。」
ティータは思わず階段の方に人影がないか目をやった。
「あ、おじいちゃん…。」
ゆっくりとラッセル博士が階段を上ってくるところだった。
レンの表情が硬くなる。
「ラッセル博士……。」
身構えるレンに、ラッセルは穏やかに話し掛けた。
「そういう用向きじゃろうとは思っておったよ、レン。お前さん、あの空中都市でエステルと別れてからずっと一人でおったんじゃろう。」
「えっ、そうなのレンちゃん?」
二人に見つめられて、レンは僅かに頷いた。
「エステルにぶたれて、抱きしめられて、わからなくなって…。帰っても、きっとわからないままだと思ったの。……だから、ずっとパテル=マテルと二人でいたわ。」
レンの言葉は独り言のようにか細い。
「パテル=マテルがいればレンは何も怖くないもの。だけど、少しずつパテル=マテルの具合がおかしくなってきて…。」
レンは小さく唇を噛んだ。
不具合の原因がわからないのではない。
結社に帰り、メンテナンスすれば元通りになるとわかっていながら、その行動が取れないのはレン自身だ。
「ふむ、やはりな。」
「おじいちゃん、見てあげようよ。」
ティータがラッセル博士に言った。
「そう簡単に言うでない。」
博士はティータを諭すように言った。
「レンが結社へ戻らなくとも、あちらさんは問題視していないようじゃが……。だが、パテル=マテルをわしらに見せるとなれば話は変わってくるはずじゃ。その事は、よくよく考えたかね?」
「レンちゃん……。」
ティータは隣に座ったレンを見た。
レンは余裕たっぷりの表情で思わせぶりに目を伏せた。
「そんなこと、レンが考えていないはずないじゃない。」
再び目を開いたレンは、真剣な表情をしていた。
「レンが大切なのは、結社じゃなくてパテル=マテルよ。」
「ふむ……。」
ラッセル博士は無意識に口髭を撫でた。
「覚悟は出来ているようじゃな。わかった、一晩考えさせてくれるかの。明日の朝わしから返事を伝えよう。」
「わかったわ。」
レンは答えると立ち上がった。
「明日の朝、お返事を聞きに来るわ。」
そう言ってレンは階段の方へ歩き出した。
「これこれ、急ぐでないわ。今日はもう日が落ちた。子供が一人歩きするような時間じゃないわい。今日はうちへ泊まっていきなさい。」
レンの後ろ姿に向かってラッセル博士が言った。
「……え………。」
レンがとんでも無いことを聞いたかのように振り返った。
「おじいちゃん、レンちゃんなら一人歩きしても大丈夫だと思うけど…。」
ティータがつぶやいた。
「下にいるお母さんに説明が出来るかな、ティータ。」
ラッセルが聞いた。
「あ。それは…難しいかも……。」
ティータが口ごもった。
「レンもあれこれ詮索されたくないじゃろう。普通の子供として振る舞って、一晩泊まっていきなさい。」
「ラッセル博士……。」
レンは何か言いたそうなそぶりを見せたが、それは言葉にならなかった。
数度、目をしばたたいたレンは、ティータを見た。
「私、ここにいても良いの?」
「うん!」
ティータはぴょんと立ち上がってレンに駆け寄った。
「一緒にご飯食べて、お菓子も食べて、一緒に寝よう! たくさんお話ししようよ、レンちゃん!!」
つづく