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遠くへ行きたい 第1話:ミッシェルさん捏造企画

最終更新日2009年12月25日

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遠くへ行きたい

第1話

冬の終わりの嵐は、三日も続いた。
やっと雲の切れ間から日差しが覗いた日、ラップはテュエールの港街区へやってきた。

シャリネを探そうと決めてから、既に一年が過ぎようとしていた。
最初に向かうつもりだったフォルティアのシャリネには結局行けなかった。
途中に横たわるギドナの砂漠が、十分な食料や水や、暑さ対策を必要とする場所だったからだ。
その日暮らしのラップには、砂漠を渡るための十分な支度が出来なかった。
何回か足を踏み入れてみたが、一面の荒野は方向感覚を奪い、歩くのはもちろん飛行魔法を駆使しても命の危険を感じさせた。
しかも砂漠は昼夜の温度差が大きく、体力や水分の消耗も激しかった。
結局ラップはフォルティアへ向かうことを断念し、他のシャリネの情報を捜すことにしたのだった。

秋になって、収穫の手伝いでまとまった賃金を得たラップは、珍しく宿酒場で食事を取った。
そのとき、宿の女将が今年も巡礼の旅人が来る季節になったと話しているのを小耳に挟んだ。
ラップが興味を示すと、女将は詳しいことを教えてくれた。
「昔からの古い習慣だよ。子どもが14歳くらいになると、成人の儀式として五つのシャリネを回るのさ。その旅人は巡礼の証の銀の短剣を持っていてね。私らは銀の短剣を持っている旅人を泊めるのが栄誉なんだよ。」
そう言ってから、女将は改めてラップを見た。
「ちょうどあんたくらいの歳の子どもだよ。あんたは銀の短剣を持っていないだろうね?」
ラップはあわてて首を横に振った。
女将は残念そうな顔をして見せた。
「あの、五つのシャリネって、どこにあるんですか?」
ラップは一番気になっていることを尋ねた。
「おや知らないのかい? フォルティアのディーネ、メナートのテグラ、アンビッシュのイグニス、ウドルのシフール、チャノムのオルドスだよ。私ら宿屋を営んでいる者には常識なんだけどねえ。まあ、この頃は巡礼をする子どもも少なくなったからね。」
女将は今年は栄誉を授かりますようにと、ぶつぶつ言いながら厨房へ戻っていった。
こんな、ありふれた場所で手掛かりを得られるとは思わなかった。
ラップは五つのシャリネの場所をしっかりと頭に刻み込んだ。

ラップはさっそくアンビッシュのイグニスのシャリネへ向かった。
だが、少しばかり季節が遅かった。
ふもとへ着いた時、シャリネのある山の上方はもう冬景色になっていた。
命の危険を考えて、ラップは行く先を変えることにした。
シフールか、それとも足を延ばしてテグラへ行くか。
ラップは考えた末にテグラへ向かうことにした。
シフールのあるウドルへは、故郷を探す間にも訪れていた。
だがテグラのあるメナートは一度も訪ねた事のない土地だった。
それにシフールの方が北にある。
冬に訪れるのは気が進まなかった。
そうして歩いていくうちに、平地まで本格的な冬になったのだった。

テュエールはメナートの中でも大きな港町で、冬でも漁船が毎日のように出漁していた。
日雇いで漁船へ乗せてもらうと、数日間過ごせるだけの給金がもらえた。
たまに大きな運搬船が到着すれば荷物の積み下ろしに雇ってもらえることもあった。
この冬をテュエール近辺で過ごす事に決めたラップは、山あいに手頃な洞窟を探し出した。
街の宿屋に泊まっては、折角の稼ぎが宿代に消えてしまうからだ。
その洞窟で薬草を干したりしながら、合間に町へ出て働いていた。

しかし、三日続いた嵐はラップの手持ちの食料を空っぽにしてしまった。
丸一日食べておらず、ラップは気力で港まで出てきたのだ。
しかし、天候は晴れてきたものの、波はかなり高かった。
港に人影はまばらで、漁に出る支度をしている船も、到着した船もなかった。
ラップはがっかりした。
『困ったな…。』
今から釣りをして、何か獲れるだろうか。
それとも洞窟に引き返して、干してある薬草を持って店へ売りに来ようか。
しかし、雨が続いたせいで薬草は湿り気を帯びていたようだった。
店が買い取ってくれるかどうか、自信が持てなかった。
港をうろついていても仕方ないので、ラップは街の大通りへ向かって歩き始めた。

街で一番大きな広場へ差し掛かったとき、ラップは炊き出しの良い匂いが漂ってくるのに気が付いた。
見ると、漁師やその家族らしい人たちが振る舞いの列に並んでいた。
列の先頭には身なりの良い使用人たちが、大鍋からシチューをよそって配っていた。
『大旦那のトンプソンさんかな。』
ラップはテュエールで知らぬ人はないという船主の名を思い浮かべた。

一つの街に滞在していると、覚える気はなくても耳に入ってくるうわさ話がある。
テュエールでも特に多くの船を持ち、大勢の漁師や船員を雇っているトンプソンも、うわさの多い人物だった。
面倒見が良く、今度の嵐のように漁に出られない日が続くと、食事を振舞ったりしてくれる。
日雇いの給金も毎日きちんと払われるので、トンプソンの仕事を当てにしたその日暮らしの男たちが、何人もテュエールで冬を過ごしていた。
尤も、うわさ話というのは人の良い所よりも悪い所を好んで取り上げるものだ。
大旦那のトンプソンにも困ったうわさが付きまとっていた。

それは一人息子のエドガーだ。
苦労知らずで育った息子は、遊び好きの厄介者になっていた。
しかしトンプソンは、そんなエドガーでも可愛がってやまなかった。
喧嘩沙汰を起こしても、どこかの娘をたぶらかしても、いつもトンプソンが内密に話をつけた。
要するに、お金を積み上げて相手を黙らせたのだと、日雇いの船の上でラップはよく聞かされた。
反省するどころか、エドガーは今も酒場や盛り場を渡り歩いているのだそうだ。
エドガーの護衛をしている男が、これまた一癖ありそうだという噂もよく聞いた。
主人であるエドガーが酒場で揉め事を起こさないように見張りをしているとの話だった。
その男は一見してまともな仕事に付いているように見えず、酒場の客たちに牽制が効き過ぎて、かえってエドガーに好き放題をさせる結果になっているらしかった。

「待てこのガキ!」
突然振る舞いの列の前の方で叫び声が上がった。
ラップのすぐ脇を、7、8歳くらいの子どもが全力で駆けていった。
「この悪ガキ!」
中年の男が叫びながら子供の後を追い、ラップの肩にぶつかって走り抜けていった。
男は謝りも、振り向きさえもしなかった。
唖然としてラップは男の姿を目で追った。

男は子どもに追いつき、片手でむんずと肩を捕まえた。
「はなせ、はなせよ! 見てただけじゃん!」
子どもは逃れようと暴れて、男のすねに何度も足蹴りを見舞った。
「痛てえ! 何しやがる!」
男が大げさな声を上げ、空いた方の手に持っていた棒で子どもの膝の裏を叩いた。
「あ…!」
ラップは思わず声を出した。
男が棒で叩いた瞬間、そこに魔法の力が込められたのが判ったのだ。
「うわっ!」
子どもは姿勢を崩して前につんのめった。
男は地面に四つんばいになった子どもの首根っこを押さえつけた。
「ここはな、トンプソン様がお身内の漁師に振る舞いをなさっている場所なんだ。お前らみたいなならず者に食わせてやる場所じゃねえ。」
子どもはもがいたが、大人に押さえつけられては逃げようが無かった。
「おいら、ならず者じゃないやい! それに見てただけだ! ほどこしなんか受けない。」
「見てただけだぁ? じゃあ何で逃げた。隙があればくすねようと思っていたんだろ!」
男は子どもの頭を小突いた。
子どもはキッと顔を上げて男を睨みつけた。
「おいらはお前みたいに悪いことはしないんだ!」
その言葉を聞いて、からかい半分だった男の表情が険悪なものに変わった。
施しに集まっている人々もざわざわと遠巻きにして二人の様子を伺っていた。
ラップも眉をひそめた。
『この男は魔法使いだ。』
こんな街の中で、しかも昼間に魔法使いを見るなんて滅多にないことだった。
良い人だったら飛び出していって挨拶したいところだが、こんな男が同じ魔法使いだなんて、残念としか思えなかった。
『なんて汚いやり方をする人なんだろう。』
小さな子どもに暴力を振るうなど、大人のすることではないと思った。

「坊主、言っちゃならねえ事ってのが世の中にはあるんだ。」
魔法使いは子どもの胸倉を掴んで引き起こした。
五本の指には大きな石の付いた指輪がいくつもはめられていた。
子どもは顔を引きつらせた。
「トンプソン様にお仕えしているこのグリムゾンが悪い事をするだってぇ? 馬鹿なことを言うんじゃない!」
魔法使いは棒を持った手を振り上げた。
「やめろよ!」
ラップはとっさに飛び出して、振り上げられたグリムゾンの腕を掴んだ。
「なんだ、お前!」
グリムゾンが怒鳴った。
近くで見ると、一層不愉快な男だった。髪はあちこちに向かって伸び、着ている物は派手でごつごつしたネックレスや指輪、耳飾りをたくさん付けていた。
「子どもに手を上げるなんて、恥ずかしくないの。」
ラップは魔法使いの問いを無視して言い返した。
「お前も子どもだろうが!」
グリムゾンは子どもを掴んでいた手を離すと、持っていた棒でラップの横っ腹を強く叩いた。
「グッ…」
ラップの身体に鈍痛が走った。ただの棒切れの衝撃とは思えない重い痛みだった。
『棒に魔法の力を込めたのか。』
周囲の人には魔法だとわからないだろう。
『こんな使い方があるんだ…。』
グリムゾンというこの魔法使いは、相当喧嘩沙汰に慣れているのだろう。
とっさに飛び出してみたものの、ラップはたった一撃で膝をついてしまった。
「に、兄ちゃん大丈夫?」
グリムゾンから開放された子どもが、ラップを気遣った。
「う、うん、大丈夫…。」
ラップは身体を起こそうと踏ん張り、叩かれた横腹の痛みに顔をしかめた。

「ちょっと、うちの子に何してるの?」
そのとき人々をかき分けて若い女性が飛び出してきた。
「サンドラ姐さんっ!」
ラップの隣にいる子どもが、女性の姿を見てホッとした声を上げた。
「あれ、サンドラのお嬢様じゃありませんか。こんな小汚いガキ共に情けを掛けるもんじゃありませんぜ。」
グリムゾンはニヤニヤと笑って言った。
ラップは歯を食いしばった。
「デンはパパの部下なの。あんたの好きにはさせないわよ。」
サンドラと呼ばれた女性は両手を腰に当て、グリムゾンに言い放った。
見守る人たちがざわざわと囁きあった。

目を上げてサンドラを見たラップは、思わず息を呑んだ。
年令はラップよりも年上…十代の後半くらいに見えた。
金髪の綺麗な巻き毛に白い地肌。
真っ赤な口紅に、意志の強そうな淡いブルーの瞳。
勝気そうだが非常に美しい少女だった。
身に着けているのは薄い柔らかな布地を幾重にも重ねた、ふくらはぎまであるドレスだった。
肩には毛皮のマントが掛かっている。
胸元は大きく開いていて……ラップは思わず地面に目を落とした。
冬のさなかだと言うのに、足にはドレスに合わせた丈の短い革靴を履いているだけだった。
まるでここが港町の路上ではなく、お金持ちの開く舞踏会の広間なのかと錯覚するような姿だった。
どう控えめに見ても、サンドラはここでは場違いだった。

「あっしのご主人様の施し所に、なぜかそのガキが紛れ込みましてね。なのでちょっとお仕置きを…。」
グリムゾンの言葉をサンドラは最後まで聞かなかった。
「子どもが勝手に遊んでいただけでしょ。あんたが手を出す事じゃないわ。」
サンドラは高飛車に言ってグリムゾンを睨み付けた。
これにはグリムゾンも我慢出来なかったようだ。
魔法使いの表情が険しくなるのが見て取れた。
「お言葉ですがね、お嬢様。」
グリムゾンは一歩、二歩、サンドラの方に詰め寄った。
サンドラは腰に手を当てたまま、近づいて来るグリムゾンを睨んでいた。

「やめろ、グリムゾン。」
また、新たな声がした。
今度やって来たのは身なりの良い若い男だった。
周囲の人々が囁く言葉がラップの耳に入ってきた。
「エドガー様だ。」
「こんな場所へ来るなんて珍しい事があるもんだ。」
ラップはしげしげとエドガーを観察した。
確かに遊び人のようだ。
上等の服、靴、丁寧に撫で付けられた髪。
どれをとっても施しの列にはそぐわない。
ただ、サンドラとは似合いの一対に見えた。
それほど二人ともこの場から浮いていたのだ。

「この人に手を出すな。」
若者はサッとサンドラに近づいた。
「こんな所に君は似合わないよ、サンドラ。」
さりげなく右手を取って手の甲に口づけを落とした。
「エドガー。会いたかったのよ…。」
サンドラは先程とは打って変わった少女らしい声でささやき、エドガーに身を寄せるようにしたが、エドガーは首を振ってそれを止めた。
「とんでもない事で、坊ちゃん。あっしは少しお話させて頂いてただけですよ。」
グリムゾンが猫撫で声で訴えた。
「うちの子をいじめてたのよ。」
サンドラがまた高慢な声でエドガーに訴えた。
「滅相もございません。」
グリムゾンは心外だと言わんばかりに大げさに驚いて見せた。
「ふむ。お互い誤解があるようだ。僕に免じて許してくれないか、サンドラ。」
エドガーはサンドラをじっと見つめて言った。
「あら、ええ…。あたしったら、ついカッとなっちゃったのよ。忘れてちょうだい。」
サンドラは顔を赤らめて、まるで言い訳をするようだった。
「坊ちゃんが仰るなら忘れまさあ。それじゃあっしはこれで、美しいお嬢様。」
グリムゾンは丁寧過ぎるくらい深くお辞儀をして、二人の前から立ち去った。
去り際にちらっとラップと子どもの方を睨んでいったのを、ラップは見逃さなかった。

「皆、騒がせたね。」
エドガーは周囲の見学者たちに声を掛けた。
「おい、手早く振舞ってやるんだ。」
列の先頭にいる使用人たちには無造作な言葉を浴びせる。
「ね、エドガー…」
立ち去ろうとしたエドガーに、サンドラが声を掛けた。
「愛しい人、大丈夫だ。僕に任せて。ふらふら出歩いて、君のパパに閉じ込められないでおくれ。」
エドガーが小声で言うと、サンドラはハッとした。
「そうね。叱られないようにしなくちゃ。」
「そうだよ。いい子にして待っているんだ。」
エドガーはサンドラの頬を片手で撫でると、今度こそ足早に立ち去っていった。

「姐さん、ありがとう!」
デンと呼ばれた子どもが、サンドラの方に駆けていった。
エドガーの後姿を目で追い掛けていたサンドラは、はっと気付いて子どもを見た。
「あんな奴に絡まれちゃダメでしょ。怪我はない?」
「うん! あ…。」
デンはラップの方を振り返った。
「おいらは大丈夫だけど、あの兄ちゃんが痛そうなんだ。」
サンドラはラップをちらりと見た。
「この人、誰?」
怪訝そうな顔でデンに聞き返す。
「知らない…けど、あいつに捕まったのを助けてくれたんだ。」
デンが答えた。
「あら、そう。」
サンドラはラップをじろじろと見回した。
ラップは痛みをこらえて起き上がった。
脇腹の痛みはまだあったが、動けないものではなかった。
「デンを助けてくれてありがと。一緒に来てちょうだい。怪我を見てあげる。」
サンドラは命令をするように言った。
ラップはその言い方にむっとしたが、申し出は有り難かった。
「助かります。」
ラップは礼を言うと、二人に付いて行った。

ラップが案内された建物は、港町テュエールの中でも最も海岸寄りの一角にあった。
通りに並ぶのはどれも船乗りたちが住んだり働いたりしている建物だった。
漁業をしている者は網を繕って海が静まるのを待っていた。
商いをしている者はぬかるんだ道を掃除し、荷物が運び込まれるのを待っていた。
その中で、表で働く者のない建物が、ラップの連れて来られた建物だった。

「帰ったわよ。」
サンドラが入っていくと、数人の男たちが頭を下げて挨拶をした。
「おっかえりー、デン!」
奥からデンより少し幼い子どもが走り出てきた。
「ただいま、ゴン。」
「あれ、この人だれ?」
ゴンはラップを見つけて首をかしげた。
「デンがグリムゾンに絡まれてたのを助けてくれたのよ。」
サンドラが言うと、男たちの一人がうなった。
「あの野郎、またうちの者に手を出しやがったのか。」
「怪我をしたみたいなの。誰か診てやって。」
「へい、お嬢さん。」
別の一人が二つ返事で請け負った。
「おい若いの、こっちへ来な。」
頬に斜めに走る傷跡を付けた男がラップを手招いた。
「は、はい。」
返事はしたものの、ラップは少しばかり後悔し始めていた。
『この人たちは、海賊かな。まともな船乗りには見えないぞ…。』
あまり関わりになりたくないと思った。

物置のようなごちゃごちゃした部屋の一角に、薬が置かれた棚があった。
棚の横には長椅子があり、ラップはそこへ座らされた。
後ろから、デンとゴンがちゃっかり付いて来ていた。
「どこが痛む?」
頬傷の男がラップに聞いた。
「兄ちゃんね、横を叩かれたんだ。」
デンは自分の身体の横腹を叩いてみせた。
「脇腹を棒で殴られたんです。」
ラップは言って、脇腹を見せた。
叩かれた所が薄赤くなって、熱を帯びていた。
「血は出てないな。ちょっと触るぜ。痛むなら教えてくれ。」
一言断ると、男はラップの腹のあたりをぎゅっぎゅっと押していった。
幸い骨に痛みはなく、腹の痛みも飛び上がるほど強いものではなかった。
「まあ大丈夫だろう。二、三日我慢してりゃ治るよ。」
男は気休めだと言って、麻痺薬を脇腹に塗ってくれた。
薬は冷んやりとして気持ち良かった。

「デン君も叩かれたよね。痛くない?」
ふと思い出して、ラップはデンに尋ねた。
「ううん、全然。」
デンはぶんぶんと首を横に振った。
「え?」
デンの答えにラップは驚いた。
グリムゾンはラップを叩いたのと同じくらい強くデンを叩いたように見えたのだ。
「あ…ちょ、ちょっと痛かったかなぁ。」
ラップの反応を見て、あわてたようにデンが言い直した。
「デンは、鈍感なんだよー。」
ゴンが笑ってはやし立てた。
「そうそう、あはは。」
デンも一緒に笑い出した。

「さて、そろそろ昼飯だ。あんたも一緒にどうだい?」
頬傷の男は薬を棚にしまうと、ラップに声を掛けた。
ラップは迷った。
怪我は診てもらえた。
大した怪我ではなく、歩いて帰れる。
食事の誘いはとても魅惑的だったが、招かれれば、食卓での話題も気を使わなくてはいけない。
それに、やはりこの人達の生業も気にかかった。
断ろうと口を開いたとき、ラップの腹が大きな音で鳴って空腹を訴えた。
「兄ちゃん、腹の虫が鳴ってら!」
デンとゴンが異口同音に叫んだ。
ラップは恥ずかしさに顔を赤くした。
こんなタイミングで鳴らなくても良いだろうと、自分の腹に文句を言いたくなった。
「ははは、正直な腹だ。ゴン、台所へ一人追加だって言ってきな。」
「うん!」
頬傷の男が笑って言うと、ゴンは大喜びで駆け出していった。
「俺はウェルだ。あんたは?」
無造作に聞かれて、ラップは考えるまでもなく答えた。
「ラップです。」
「ラップ兄ちゃんかあ。」
デンがニコニコと笑った。
「すみません、ご馳走になります。」
ラップはウェルに頭を下げた。
「ははは、気にすんな。」
ウェルは陽気に笑った。
そんなに悪い人達ではないみたいだと、ラップは少し安堵した。

昼食には、十人ほどが集まった。
長テーブルの奥の席に、体格の良い大柄な男が座った。
その次の席には、先程よりは落ち着いた服装に着替えたサンドラと、向かいに頬傷の男ウェルが座った。
それから男たちが続き、末席にデンが座った。
ラップはデンの横に腰掛けた。
ゴンはいなかった。
デンに尋ねると、まだ小さいゴンは台所で賄いの女性たちと食事を取るらしかった。
食卓に並んだのは、野菜と魚の煮込みに、丸く焼いたパンだった。
決して豊かではないが、今のラップにはどんな物でも有り難いものだった。

「お頭、さっきデンがグリムゾンの野郎に絡まれまして。」
食事があらかた済んだ頃、ウェルが、奥の席の男に話し掛けた。
お頭と呼ばれた男はデンに向かって言った。
「デン、ちゃんとやり返したか?」
「うん、蹴ってやった。」
デンは胸を張って答えた。
「そこの若い子が助けてくれたの。」
サンドラが言い添えた。
ラップはお頭に向かって会釈した。
「サンドラ、町へ出たのか!」
お頭はラップではなく、サンドラに向かって言った。
サンドラはしまったという顔になった。
「昼日中に用事もないのにふらふら出歩くな!」
「ごめんなさい、パパ。久しぶりに晴れたものだから…。」
サンドラは肩をすくめて謝った。
「昼間から盛り場にたむろする連中などと関わるな!」
お頭はサンドラの言い訳など聞こえていない様子で怒鳴った。
サンドラはぎゅっと目を閉じた。
それからそっと伺うように上目遣いで父親を見上げた。
「お日様に当たりたかったの。それだけよ。」
「出歩くときはパパに言うんだ、いいな。」
「はい、パパ。」
しおらしく答えたサンドラの姿に、ラップは唖然とした。
デンの方を伺うと、デンはニヤッと笑って指を一本唇に当てて見せた。

「済まない、君。デンを助けてくれたんだな。」
お頭が話し掛けてきた。
「黙って見ていられなくて。でも、一発で倒されてしまいました。」
ラップは答えた。
「怪我を診てもらって、ありがとうございました。」
お頭と、ウェルとサンドラに向かってラップは礼を言った。
「あのグリムゾンって奴は、トンプソンに雇われる前は曰く付きの風来坊だったんだ。」
お頭が言った。
「怪しい術を使っているって噂でな。それが今じゃ、遊び人の用心棒だ。あんな奴を息子に付けるトンプソンの気持ちがわからん。」
「あの親父は、息子が可愛いあまりに物事が見えなくなってるんですよ。」
ウェルが言った。
二人の会話を聞いて、サンドラが不満そうな顔をしていた。
「馬鹿親父だ、まったく。なあ君、見たところ流れ者のようだが、何処かで働いているのか?」
お頭がラップに尋ねた。
「冬の間、テュエールで日雇いの仕事をしています。」
ラップは気を引き締めた。
お頭もウェルもそうだが、気取ったところがなかった。
ついつい好感を抱いてしまうのだが、彼らは見知らぬ人たちだ。
用心するに越したことはなかった。
「それじゃあ嵐の間は仕事がなくて困ったんじゃないか。」
「はい。食いはぐれていたので助かりました。」
「兄ちゃん腹の虫が鳴ってたもんな。」
デンがにやっと笑って言った。
「良かったら好きなだけ居てくれ。俺のところは素性やら何やらは問わないんでな。」
ラップがぎくりとするような事を言って、お頭は立ち上がった。
「ウェル、按配してやってくれ。」
「へい。」
ウェルは二つ返事で頷いた。
「サンドラ、おとなしくしているんだぞ。」
「…はいパパ。」
サンドラは赤い唇をちょっと尖らせて答えた。

食事が終わると、サンドラは面白くなさそうな顔で何処かへ行ってしまった。
男たちは作業場へ戻った。
それぞれに皮を加工したり、木を削ったり、てんでにばらばらな作業を始める。
「ええと、ラップだったな。お頭も良いって言ったし、一晩泊まってけ。今日はまだ港の仕事はないだろう。」
ウェルが言った。
「兄ちゃん泊まれよ。」
デンもせがんだ。
「いえ、そんなにしていただくわけにはいきません。」
ラップは丁寧に断った。
「晩飯の当てもないんだろう? ただ飯がいやなら倉庫の片付けでもやってくれりゃ、俺たちも助かる。」
「でも…。」
ウェルの言葉にラップは戸惑った。
なぜ見ず知らずの自分を警戒しないのだろう。
普通の人たちは13歳の若さで流浪しているラップを信用しない。
宿屋でも食堂でも警戒する目で見られるものだと、ラップ自身も慣れっこになっていた。
日雇いで使ってくれる所でもそれは同じで、打ち解けるのは、何度か労働を重ねて信頼を得てからのことだった。

「若いの、遠慮すんな。」
木屑にまみれた男が声を掛けてきた。
「ここには胡散臭い風体の奴も多いが、作ってる物は真っ当だ。」
「何を作っているのですか?」
ラップは尋ねた。
「いろいろだ。帆、縄、樽、木靴、モップやハンモックまで作ったことがあるわい。」
男はそう言って笑った。
「何でもやるんだよ、おいらたちは。」
デンが一人前の口をきいた。
よろず屋のような仕事だろうかとラップは考えた。
何か一つを専門に請け負うのではなく、もらえる仕事は何でも引き受けるのだろう。
「わかりました。」
ラップはウェルに向かって言った。
「倉庫の片付けをやらせてください。そのかわりに一晩泊めてください。」
「よし、決まりだ。」
「やったあ!」
横でデンが飛び上がった。
「じゃあデン、一緒に倉庫へ行って仕事してきな。」
ウェルは引き出しから鍵を取り出してデンに放った。
「ええっ、おいらも?」
しっかり鍵をキャッチしてからデンは文句を言った。
「当たり前だ。晩飯抜かれたいか?」
「やだ。」
「じゃあ働け。」
ウェルとデンのやり取りを聞いて、ラップは思わず頬を緩めた。

案内された倉庫の中は、雑多な荷物が通路の両側に積み上げられていた。
周囲の棚には空きも目立った。
通路を確保して、床に置いたままの品物を減らしてくれというのが、ウェルからの指示だった。
「これ、中身を見ても良いのかな?」
ラップは無造作に積まれた箱をトントンと叩いてデンに聞いた。
「開いてるのは良いよ。閉まってるのは勝手に開けると怒られる。」
「そうか。」
どれから棚に移そうかと、ラップは箱を見て回った。
「軽いのから運べばいいじゃん。」
デンが言った。
「そんなやり方でいいのかな?」
「いいよ。兄ちゃんが来なかったら、このままだったんだし。」
デンは気楽に言った。
ラップはもうしばらく箱を見て回ったが、結局デンのやり方に従うことにした。

「兄ちゃんは何で一人なの?」
箱を運びながらデンが聞いてきた。
「…家族がいないからだよ。」
ラップは簡潔に答えた。
「おいらもいないよ。」
デンはさらりと言った。
ラップは手を止めた。
「ゴンは弟じゃないの?」
「ううん、違う。おいらもゴンも、お頭が拾ってくれたんだ。」
ラップは意外に思った。
と同時に、ここの人達が初めて会った者を警戒しない理由がわかったような気がした。
前科者やならず者を雇うだけでなく、孤児まで引き取っているとは。
「そうなんだ。良い人なんだね、お頭って。」
ラップが言うと、デンはニコニコして頷いた。
「でも姐さんには厳しいけどな。お頭、姐さんのことすっごい大事にしてるから。」
デンの言葉で、お頭に対するサンドラの態度が別人のようだったとラップは思い出した。
「ねえデン、サンドラは、どっちが本当のサンドラなの?」
デンはそれを聞いて大笑いした。
「お頭の前で良い子にしているのはニセモノだよ。」
デンはそう言ってまた笑った。
ラップもその言葉で納得した。
街中でグリムゾンに面と向かっていた方が、サンドラらしい気がした。
「姐さんは、びしっと言いたい事を言うのがかっこいいんだ。」
デンも同じことを思っているようだった。

二人はゴンが食事を呼びに来るまで働いた。
ウェルに鍵を返すとき、デンは真面目に働いて疲れ果てたことを強調していた。
「そうかそうか。これからは毎日働いてくれりゃ大助かりだぜ。」
「やだよー。」
デンは明るく言い返した。
ウェルが軽くこつんと頭を叩く。
「そういう怠け者は飯抜きにするぞ。」
「やだ!」
デンはさっと自分のテーブルに座った。
「ラップもありがとな。たくさん食ってくれ。」
ウェルが言った。
「はい。ありがとうございます。」
ねぎらいの言葉が嬉しかった。
ラップは温かな気持ちでテーブルに着いた。

夕食後、男たちは食堂に残ったままのんびりと過ごしていた。
部屋の隅には古い暖炉があり、細々と火が燃えていた。
台所で食事を終えたゴンが、デンと一緒に暖炉の前に陣取って絵本をめくっていた。
お頭とサンドラはいなかったが、男たちの数は減った様子もなく、皆この建物で寝起きしているようだった。
そういうあたりは船乗りの街らしいとラップは思った。
ただの契約関係よりも絆が強い。
見ず知らずの者に寛容になれるのも、この暮らし方のせいかもしれなかった。

「あんた、身寄りがないのかい?」
昼間、木を削っていた男がラップに聞いてきた。
ラップは答える代わりに頷いた。
「まだ若いのに家がないのは辛いだろう。」
男が言った。
「仕方がないです。もう慣れました。」
ラップは特に悲しむでもなく答えた。
「兄ちゃんここに住めば?」
ゴンが突然振り向いて言った。
子供らしい、あどけない言葉だった。
「ううん。もう少しして春になったら行きたい町があるんだ。」
ラップは首を振って答えた。
「どこに行くの?」
デンが聞いた。
「テグラっていう町だよ。」
「そりゃまた辺鄙な町だな。知り合いでもいるのか?」
ウェルに聞かれて、ラップは返事に詰まった。
シャリネの事は黙っているべきだろうとラップは思った。
宿屋の人しか知らなかったくらいだし、昔魔女が始めた巡礼の場所だと言ったら、どんな反応をされるか不安だった。
「初めて行く街です。訪ねたい場所があるんです。」
「ふうん。暮らしの厳しいところだと聞くがね。それならテュエールでしっかり稼いで金を貯めて行くんだな。」
ウェルが言った。
良いアドバイスをもらったとラップは思った。
「ありがとう、そうします。」
ラップは答えた。

バタンと音を立ててドアが開き、サンドラが食堂に入ってきた。
夜になって羽織るものを一枚着込んでいたが、それでも彼女のはじけるような若さは隠れるものではなかった。
じっと見ていることもできなくて、ラップはそっと視線をはずした。
「どうしたんですか、お嬢さん。」
ウェルが聞いた。
サンドラはムッとして言い返した。
「私が家の中を歩いたらいけないの? パパみたいな事言わないで。」
「いや…ああ、すいません。」
ウェルはサンドラに逆らわなかった。
「あんた、ちょっと私の部屋へ来なさいよ。」
サンドラはラップに声を掛けてきた。
「え、僕?」
ラップは思わず聞き返した。
サンドラが自分に一体何の用だろうか。
「旅をしてるんでしょ? 話を聞かせてよ。」
サンドラは言った。
「お嬢さん、お話ならここでも…。」
ウェルが口を挟んだ。ラップには有り難い助け舟だった。
「黙っててちょうだい。さあ、付いてきて。」
サンドラはウェルをひと睨みすると、ラップが答えるのも待たずにさっさと部屋を出て行った。
「えっと……。」
どうしたら良いのか戸惑うラップに、あきらめたような声でウェルが言った。
「お嬢さんに付いて行け。くれぐれも失礼のないようにな。」
「わかりました。」
ラップは答えると、サンドラの後を追って食堂を出た。

「こっちよ。」
サンドラは階段の途中で振り向いてラップを呼んだ。
ラップは足早に階段を駆け上がった。
サンドラは二階の奥まった部屋の扉を開き、ラップを振り返って、付いてくるようにと目で促した。
後に続いて部屋へ入ったラップは、一歩中へ入って思わず声を上げた。
「うわあ……」
真っ先に目に入ったのは、毛布が何枚も掛かった暖かそうなベッドだった。
隣には繊細な細工の施されたドレッサーと服をしまう大きなキャビネット。
足元の絨毯はふかふかしていて足が沈み込むようだった。
部屋の奥には食堂のものより立派な暖炉がしつらえられ、赤々と火が燃えていた。
窓辺には冷気を遮ってくれそうな分厚いカーテンも掛かっている。
キャビネットの上や暖炉の上、それにベッドサイドにもランプが点けてあり、夜だというのにとても明るかった。
『こんな贅沢な部屋を見るのは初めてだ…。』
ラップは開いた口がふさがらなかった。
「ちょっと、寒いわ。扉を閉めてよ。」
サンドラがラップに言った。
「あ、ごめん。」
ラップはあわてて部屋の扉を閉めた。

サンドラはドレッサーの前の丸い椅子に座った。
ラップは所在無さげに立っていた。
「座ったら?」
サンドラは言ったが、どこへ座ったらよいのかラップは迷った。
部屋の調度品の清潔さに比べて、ラップの着ているものはあまりにも汚れていた。
「そこへ座りなさいよ。」
サンドラが不思議そうな顔をしてベッドを指差した。
「僕、埃だらけなんだ。」
ラップは情けない顔で返事をした。
「構わないわ。どうせ…。」
サンドラは何か言いかけて口を閉ざした。
「いいから、座って。旅をしているんでしょ。あちこちの話を聞かせてよ。」
「う、うん。」
ラップはこわごわと上等な毛布の上に腰を下ろした。

「立派な部屋だね。」
ラップは改めて部屋を見回して言った。
「大事にされているんだね。」
ラップは心からサンドラをうらやましく思った。
豊かな物に囲まれて、大事に育ててもらっているのだろうと思った。
「ちっとも良くないわ、こんな部屋。」
サンドラは吐き捨てるように言った。
「えっ?!」
ラップは驚いてサンドラを見た。
きれいな顔が、ゆがんで見えた。
「どうして?」
部屋もベッドも暖かくて、着る物も不自由なくて、どこが良くないというのだろう。
「あたしは町でエド…お友達と遊びたいし、ここにも遊びに来てもらいたいし、どこかへ出掛けたりもしたいの! 一人でこんな所で一日暮すのは嫌なのよ!」
サンドラの勢いに、ラップはたじたじとなった。
「そういえば、食事の時に言われていたよね。出掛けると怒られるの?」
ラップは尋ねた。
「そうよ。ひどいでしょ! あたしはもう17よ。いちいちパパの許しを貰わなくたって、町を歩くくらい良いと思わない?」
サンドラは味方を得たようにラップに向かって言った。
「でも、デンに絡んでた魔法使いみたいな奴もいるし…。」
「魔法使い?」
「あっ……」
ラップはとっさに手で口を覆ったが、後の祭りだった。
「グリムゾンの事? あの人が魔法使いだって、どうして分かったの?」
サンドラが畳み掛けるように聞いてきた。
しまったとラップは思った。
よりによって、サンドラのような人に聞かれてしまった。
ラップは首を振った。
「なんとなく、だよ。怖そうだったから。」
「へええ…。」
サンドラは疑わしい目でラップを見た。
魔法を感じたなんて言えない。
ラップはだんまりを決め込んだ。

「そう、いいわ。」
しばらくして、サンドラはあきらめたのか、ついと立ち上がってキャビネットの中から琥珀色のビンを取り出した。
「これ、見たことある?」
ビンをラップの目の前にかざす。
サンドラがビンを傾けると、中の透き通ったあめ色の液体はとろりと傾いた。
「ハチミツ?」
「そう。これはただのハチミツじゃなくてね、寒い国の花から採ったものよ。とてもいい香りがするの。」
サンドラはビンのふたを開けると、無造作に指先を入れてラップの目の前に突き出した。
「舐めてごらん。」
「えっ!…」
「味見。」
ラップは目の前に突き出された指とサンドラの顔を交互に見た。
「そんなこと……」
サンドラは澄ました顔で指先をラップの口に近づけた。
「ほら、早く。こぼれちゃう。」
サンドラはハチミツがこぼれないように、器用に指を回した。
「そんなこと出来るわけないじゃないか!」
ラップは頬が紅潮するのを自覚した。
サンドラの細い指から、ハチミツがひとしずくこぼれ落ちようとしていた。
とっさにラップは手を出して、こぼれたハチミツを受け止めた。

「あーあ、落ちちゃった。」
サンドラはつまらなそうに、ハチミツの付いた指を自分で舐めた。
『からかわれたんだ…。』
ラップは上目遣いにサンドラを睨んだ。
「これ、珍しい物なのよ。勿体無いなあ。」
サンドラは両手をのばすと、ハチミツの付いたラップの手の平を掴んでぺろりと舐めた。
「わっ!」
ざらっとした舌触りが、ラップの身体中を走り抜けた。
「何するんだよ!」
手を引っ込めようとしたが、サンドラはぎゅっと掴んで離そうとしなかった。
二度、三度、熱い舌がラップの手の平を丁寧に舐めていく。
ラップの全身が急激に火照った。
「や、やめて!」
叫ぶ声も、懇願する調子になった。
「いやよ。」
サンドラは視線を上げてラップを見た。
からかう様子ではなく、押し殺したような声だった。
「グリムゾンの事どうして判ったのか教えて。」
「それは…」
ラップが口ごもると、サンドラはまたラップの手の平を舐めた。
もう、ハチミツなんて残っていないだろう。
ラップに白状させようとしているのは明らかだった。
そして、ラップの我慢も限界だった。
「誰にも言わない?」
「言わないわよ。」
即座にサンドラが答えた。
それが素直に信じられれば、わざわざ聞きはしない。
だが今は、一刻も早くこの辛い状態から抜け出したかった。
「魔法の気配がしたから。…僕も魔法使いだから、わかるんだ。」
ラップは小さな声で答えた。
サンドラがはっとしてラップを見た。
彼女の腕の力が弱まったのを感じて、ラップは急いで手の平を引っ込めた。
「あんたも魔法使いなの?」
サンドラが疑わしそうに言った。
ラップは頷いた。
「杖、持ってないじゃない。」
「なくたって魔法は使えるよ。」
ラップは答えた。
そして驚いた。
サンドラは先程までと何ら変わらない様子だ。
「サンドラ、怖いとか恐ろしいとか、思わないの?」
今度は逆にラップが尋ねた。
「別に。パパはどんな人だってのけ者にしないもの。魔法使いもならず者もうちで働いたことがあるわ。怖くなんかないわよ。」
「そうなんだ。」
ラップは感心し、それからふと気付いて尋ねた。
「ねえ、グリムゾンが魔法使いだって知ってたの?」
「あ、…ええ、まあね。エドガーが教えてくれたの。」
サンドラはその話題に触れたくない様子で、そそくさとキャビネットにハチミツの瓶をしまい込んだ。

「ねえ、あんた、名前は?」
何もなかったかのように椅子へ座り直すと、サンドラは尋ねてきた。
「あれ、言ってなかった?」
ラップは拍子抜けして聞き返した。
「知らないわよ。」
サンドラは答えた。
デンやウェルが散々呼んでいるのに、どうやらサンドラの耳には入っていなかったようだ。
「ラップだよ。」
「ラップ。……パッとしない名前ね。」
サンドラが言った。
「君にそんな事言う資格はないだろ。」
ラップは強い口調で言い返した。
「あら、気に障っちゃった?」
「大事な名前なんだ。生まれたときにつけてもらった…」
「……あら、そう。」
ラップの剣幕に押されたのか、サンドラは大げさに肩をすくめた。
ラップは両手をぎゅっと握り締めた。
サンドラは人の気持ちを平気で踏みにじる。
なんてわがままなんだろう。
こんなにいい部屋に住んで、危険に遭わないように守ってもらっているのに。

しばらく沈黙が流れた。
先に居心地が悪くなったのはラップの方だった。
「女の子って、名前が気に入るとか気に入らないとか、皆そんなことを考えるの?」
ラップはサンドラに聞いた。
「考えるわよ。あと、お姫様になりたいとかね。ああ麗しの姫、ラーナルーナ・エリザベス・ド・ムーンブリアよ、私の妃になってください! なーんてね。」
即座に返って来たサンドラの言葉にラップは目を丸くした。
昔、館で見かけた小さな女の子とサンドラの姿がだぶった。
女の子の本当の名前は忘れてしまったが、ひたすら唱えていたうその名前はまだ少し覚えていた。
「昔同じように名前を作っていた子がいたよ。ミシェル・ヘンリー…何だったかな。」
「ミシェルはともかく、ヘンリーって男の子の名前よ。」
サンドラが口を挟んだ。
「あれ、そうなの。」
「ええ。ヘンリーって良いわね。いかにも王子様らしいわ。あんた、変えたら? 他にもセリオスとか、クリストフとか、オリヴァルトとか、お勧めするわよ。」
サンドラは楽しそうに言った。
「いやだよ。」
ラップはしかめ面をして、きっぱりと断った。

「…あれ、ミシェルって女の子の名前なんだ。」
ラップはふと気付いてサンドラに尋ねた。
「そうよ。」
サンドラは頷いた。
「男の子だったら?」
「ミッシェルね。なんで?」
「……。なんでもないよ。」
ラップは肩を落とした。
本当の名前を隠して、魔法使いだという事を隠して、故郷を捜し歩いた二年もの日々。
何度もミシェルと名乗った。
女の子の名前だったなんて知らなかった。
名乗った相手はうそを付いていると判っていたかも知れない。
『考えても仕方ない。もう終わったことだし。』
ラップはそう思って自分を慰めた。

「ねえ、あんたはどういう魔法を使えるの?」
サンドラが改まって聞いてきた。
「風や火を操ったり、空を飛んだりするよ。」
「空を飛ぶの? 本当? 砂漠まで行ける?」
サンドラは目を丸くした。
ラップは思わず笑った。
砂漠の国ギドナは何日も掛かるほどの遠方だ。
「そんなに遠くまでは飛べないよ。たくさん魔法力を消耗するんだ。」
「なんだ、がっかりだわ。」
サンドラは言った。
「あたし、遠くへ行きたいのよ。」
独り言をつぶやくようにサンドラが言った。
「え?」
ラップは聞き返した。
少しうつむいたサンドラの顔に金の髪がかかって陰りを作っていた。
わがままで、勝気そうなサンドラが、何故だか寂しそうに見えた。
「どこか知らない国で自由に生きたいの。砂漠でなくてもいいわ。」
「どうして? ここで充分幸せじゃない。」
ラップは言った。
「全然幸せじゃないわよ! 」
サンドラはキッと顔を上げた。
「そんなの贅沢だよ。こんな立派な自分だけの部屋があるのに。」
ラップは反論した。
「あんたに何が分かるのよ。こんなに物ばっかりあったって、あたしには自由がないの!」
「僕は家も家族もなくて、多分とても自由だけど、一人で暮らすのって楽じゃないよ。」
ラップはサンドラを見つめて言い返した。
「何よ、あんた全然わかってくれない。期待して損した。もう出てってよ。」
サンドラが言ったので、ラップはベッドから立ち上がった。
お姫様気分で夢のような事を聞かされるのはもう十分だと思った。
「わかった、出てくよ。」
ラップは足早に部屋を出て、バタンと音を立ててドアを閉めた。
廊下の冷えた空気に、ラップは身震いした。
『中はあんなに暖かかったのに。』
食堂へ戻ろうと、階段へ足を向ける。

そのとき後ろでドアの開く音がした。
「ちょっと。」
サンドラがラップを呼び止めた。
ラップは振り返った。
「家から出てっちゃ駄目よ。お客さんを追い出したら、あたしが叱られちゃうから。」
なんて自分に都合のいい事を言うのだろうと、ラップは思った。
「……ありがとう、泊めてもらうから安心して。」
ラップはサンドラに告げると、さっさと階下へ下りていった。

(2009/12/25)

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