アリア
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眼下の大地に刻まれた底知れぬ裂け目。
そこから吹き上げる風にさらわれそうになりながら、アリアはずっとそこにたたずんでいた。
誰もアリアの邪魔をする者はいなかった。
一族の力の全てを引き継いだアリアは長ではなかったが里の代表者と呼べる位置にあった。
その力が、今、警鐘を鳴らしていた。
不意に、背後に人の気配を感じる。
振り返るアリアに、たった今、空から舞い降りてきた男が声を掛けた。
「こんにちは。」
「今日もいらしたのですか・・・。」
穏やかに微笑みかける男に、アリアの瞳には困惑の色が広がった。
ここは隠れ里シュルフ。
力を持たない者は決して入って来れないはずの場所。
しかし、この男はやって来た。
そして里の秘密を教えて欲しいと言った。
この世界に、不穏な動きを感じているのだと言った。
最初はかたくなに拒んでいたアリアだったが、男が自分の調べ上げた事を説明するに至って気持ちがぐらついてきた。
おそらく、アリアの力が鳴らしている警鐘と、この男・・・ミッシェルの感じている不穏な動きは同じものだ。
しかし千年の永きにわたって門外不出としてきた里の秘密を、そう簡単に得体の知れない男に教えられるものではなかった。
ミッシェルは怒ったり失望したりはしなかった。
ただ、あきらめなかった。
アリアが祖父であり先代の継承者であった族長オラトリオと共に正式に断りを入れたあとも、あきらめなかったのだ。
毎日現れるミッシェルを、はじめのうち里の者は警戒したが、だんだんと慣れてきている。
この数日は、ミッシェルも里の中を歩き回るようになっていた。
アリアとても、冷たく追い返す日々の重なりにいくばくかの罪悪心が芽生えないでもなかったのだ。
ミッシェルはアリアの横に立ってガガーブを見つめた。
初めて二人でここに立った日、ミッシェルは引き裂かれた大地の片方を指差し、『自分の故郷です。』と言った。
そして、もう一つの大地を指差して、『あなたを助けた私の友は、あちらの大地からやってきました。』とも言った。
三つの世界を全て視界に納めていながら、自分はなんと狭い世界で生きてきたのだろうとアリアは思った。
「私の友人が、オースタンのシャヌーン族の遺跡であなたたちの『負の遺産』を見たと教えてくれました。」
何気ない口調でミッシェルが言った。
アリアは驚いてミッシェルを見た。一体どこからその情報を手に入れたのだと問いたかった。
ミッシェルの熱意が、アリアには底知れぬ物として映っていた。
だが、その事にミッシェルは気付いていない。ミッシェルのまなざしは確信に満ちていた。
「アリア。教えてください。青き民の『負の遺産』とは、何なんです?それがヌメロス帝国の手に渡ったら、どんなことが起こるのですか?」
ミッシェルの瞳に熱い願いがこもっていた。
視線をはずす事が出来なかった。
二人は、見詰め合ったまま立ち尽くした。
「お断りしたはずです。お話することは、ありません。」
アリアの髪を風がもてあそぶ。 風は、ミッシェルの青いローブもはためかせた。
「間に合わなくなると、感じています。」
ミッシェルが一語一語区切るように言った。
「ヌメロス帝国に潜入し、彼らの側から調べを進めて、 負の遺産の正体を知ることも出来るでしょう。 しかしそれでは遅すぎる。 メルヘローズの沖合いにはヌメロス帝国の軍艦がやってきている。
一刻も猶予はないのです。」
「オースタンのシャヌーン族が青き民の子孫であるなら、 彼らもまた、いざというときになすべき事を知っているはずです。」
「そうとは限らない。この里で『幻のメロディー』が失われたように。」
ミッシェルが言った。アリアは息を呑んだ。
「なぜそれを知っているの?」
「やはり。それでマクベインさんに共鳴石の回収を依頼したのですね。」
「あなた、たばかって・・・。」
アリアが抗議した。ミッシェルは不敵に微笑んだ。
「私だって遊んでいたわけじゃない。レオーネが、自分の調べた『幻のメロディー』についてあちこちで書き残していますからね。それに、この里の方たちも貴女ほどつれなくはなかったですよ。」
「あなたは、本当に一体何者なの?この世界の秘密を知ってどうしようというの?」
アリアはミッシェルを問い詰めた。ミッシェルは意外そうな顔をして答えた。
「同じ時代を生きている者・・・ではいけませんか?自分の未来を守りたい、それが私たちの世界を守る事ならこの世界も守ってみせるだけです。私に野望があるとしたら、世界を知りたいと思ったことだけ。他には何もありません。君臨したいとも、滅ぼしたいとも思いません。」
「その言葉を信じろとおっしゃるの。」
「信じていただくしかありません。」
アリアは目を伏せた。ミッシェルの瞳を見ていられなかった。
『私に勇気を、真実を見つめるまなざしを・・・。』
正しく世界を見る力を与えて欲しい。継承者として、正しい結論を・・・。
『パルマン・・・。』
すがりつきたい人の名が浮かんだ。
想いを振り払うように、アリアは唇を噛みしめた。
「帰ってください・・・。もう来ないで。」
アリアは声を絞り出した。
「・・・わかりました。」
ミッシェルの落胆した声が耳に入り、アリアは顔をあげた。
目の前に、傷ついた瞳があった。ミッシェルを傷つけたと知って、アリアの心も痛んだ。
でも・・・これは仕方のないこと。許されるはずのことだった。
「もう来るなと言われましたが、何かあったら立ち寄らせていただきます。」
ミッシェルは無理やり笑顔を浮かべて言った。
「パン屋の情報網よりは早いでしょうからね。」
「!!」
「では、失礼。」
ミッシェルは宙に浮かんで、消えた。
不敵な笑顔が脳裏に焼きついて消えなかった。
『もしも、彼が正しかったら?』
アリアは気が遠くなりそうだった。そのとき、この世界は・・・。アリアは自分をぎゅっと抱きしめた。不安は拭えなかった。