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ヘブン 第3話:ミッシェルさん捏造企画

最終更新日2011年7月23日

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ヘブン

第3話

四日目の朝、ラップはやっと床を離れることが出来た。
「ふむ、顔色もだいぶ良くなった。」
モーリスは朝食のテーブルに着いたラップを見て安心した様子だった。
「お世話になってしまってすみませんでした。」
ラップはモーリスに頭を下げた。
「そう恐縮することではないさ。ここへ連れてきたのは私だからな。それに、大分落ち着いた様子ではないか。」
モーリスはラップの顔を窺うように言った。
気持ちの整理が付いたのかと、問われているのだと思った。
「はい。色々考えることが出来ました。」
ラップは答えた。
「旅に出てから、僕は、生きて行く事に必死でした。修行らしい事をしていませんでした。」
ラップは食卓に視線を落とした。
ラップの前には消化の良さそうなおかゆが並んでいた。
嬉しい、と思った。
「これからは、もっと心を磨こうと思います。強くなります。失敗を繰り返したくないです。」
「それは殊勝な心がけだな。」
モーリスは頷いた。

「そう言えば、君はオルドスのシャリネの辺りで修行を受けたと言っていたな。」
パンをちぎりながら、モーリスがラップに聞いた。
「はい。」
ラップはかゆを口に運ぶ手を止めて答えた。
「どんなことを習った?」
モーリスが尋ねた。
「基本的な事です。魔力の出し方や止め方、簡単な魔法。火の玉やカマイタチや雷撃を教わりました。」
「ふむ…。」
モーリスはじっとラップの言葉を聞いている。
その表情は納得できないと言っている様に見えた。
「ええと、癒しの館は、回復魔法の使い手を主に育てていました。僕たち攻撃魔法の使い手はあまり深く魔法を追求する事はなかったんです。それよりも薬草採集や加工の方法を覚える方が大事でした。」
ラップは言い添えた。
モーリスの眉間にしわが寄った。
「そういう事か。それでは君は、飛行魔法や空間転移魔法をどうやって覚えたのだ。」
「館には魔法を記した本がたくさんありました。そこから学びました。」
ラップが答えても、モーリスの表情は変わらなかった。
「本。それでは学びたい事だけを自由に学んでいたのだな?」
「はい。」
ラップはモーリスのけしからんと言わんばかりの口調にたじろぎながらも答えた。
「そうか…。それで好きな魔法だけ覚えたまま、旅に出たというわけか。」
モーリスが強引にまとめた。
ラップの受けた魔法教育を、あまり良く思っていないようだった。
「僕は普通より早く、10歳で館を離れるように言い渡されました。館で薬師になる努力を続けるよりも、適切な師を得て自分の進みたい方向を伸ばすようにと言っていただきました。」
館にいた時間を否定される事がいたたまれず、ラップは言葉を返した。
「しかし誰にも付かずに、修行をないがしろにしていた訳だろう?」
モーリスはすかさず反論した。
ラップは返す言葉がなかった。
師を見つける余裕などなかったのだが、それも言い訳のような気がした。
「そこの人たちは、君にアンビッシュへ行く事を勧めるべきだった。」
モーリスは言った。
「アンビッシュ…イグニスのシャリネがある国ですね。」
ラップは答えた。
「そうだ。シャリネには何もないが、首都アンデラへ行けば魔道師の一人や二人は見つかったはずだ。」
「そうなんですか。」
ラップは明かりが見えたように思った。
「ありがとうございます。これからの道しるべが出来ました。」
ラップは感謝を込めて答えた。
「おいおいヘブン、それはないだろう。」
モーリスが慌てて腰を浮かせた。
ラップはモーリスの言葉の意味が分からず、きょとんとしてモーリスを見返した。
「モーリスったら……。」
話を聞いていたレオが、開いた口がふさがらないという様子でつぶやいた。
モーリスは咳払いを一つすると、腰を下ろした。
「ヘブン。君は目の前の魔道師よりも、会ったこともない遠方の魔道師の下で学びたいかね?」
「え…。」
ラップはモーリスの言葉に驚いた。
「モーリスさん、それは…。僕を指導してくださるのですか?」
ラップが尋ねるとモーリスは待ってましたとばかりに頷いた。
「物事には学ぶ順番というものがある。それに照らし合わせると、君の学んだものは偏りがあるだろう。」
「はい……。」
ラップは頷いた。
やはり劣っている部分、魔法力に比べて弱い部分がモーリスには判るのだ。
「ここで私たちと共に暮らしながら、もう一度系統立てて学びなさい。今まで以上の事を教えられると思っている。」
モーリスが言った。
ラップは飛び込んできたチャンスに驚きを隠せなかった。
こんな幸運な偶然があるだろうか。
だが、すぐに考え直した。
ここへ来たとき、モーリスはラップを迎えに行くかどうか迷ったと言っていた。
ラップを迎えに出たとき、モーリスの中で既に答えは出ていたのだろう。
森に突然現れた魔法使いを迎え入れるという答えが。
「ありがとうございます、モーリスさん。」
異存はなかった。
ラップは姿勢を正すと深く頭を下げた。
「是非ご指導をお願いします。」
「よろしい。では今から君は私の弟子だ。」
モーリスは満足そうに宣言した。
「レオ、仲良くするのだぞ。」
モーリスは隣で食事を取っていたレオに声を掛けた。
「…はい、モーリス。」
一瞬遅れてレオは答えた。

「もう普通に動けるかな。」
食事が済むと、モーリスはラップに尋ねた。
「はい、大丈夫です。」
ラップは答えた。
「それではまず君の部屋だ。レオ、巡礼者の部屋をヘブンに使ってもらうからな。」
モーリスは食器を片付け始めたレオに声を掛けた。
「はい、モーリス。…寝具を運びますか?」
レオは手を止めてモーリスの指示を待った。
「いや、ヘブンにやってもらう。レオは自分の仕事をしなさい。」
「わかりました。」
レオは答えた。
「ヘブン、君、食事の支度は出来るか?」
モーリスは奥の扉へ歩きながら、ラップに尋ねた。
「いいえ。皮むきや下ごしらえは出来ますが…。」
ラップは正直に答えた。
他に出来るのは小動物を丸焼きにすることくらいだった。
「ふむ、そうか。」
「モーリス、シャリネの掃除をヘブンさんに頼んだらどうでしょう。」
後ろからレオがモーリスに言った。
「ああ、レオでは手の届かない所があったな。」
モーリスはつぶやくように言った。
「はい。ヘブンさんならきっと大丈夫です。」
レオがまた言い返した。
「ふむ。そうするか。」
モーリスはまたつぶやくように言った。
お互い自分の事をしていて、向き合うでも、目を合わす訳でもない。
それでも二人の会話はちゃんと成り立っていた。
気心の知れた二人だなと、ラップはモーリスとレオをうらやましく思った。

ラップはモーリスに続いて、居間の奥へ足を踏み入れた。
向かいは台所だった。扉はなく、かまどに鍋が置いてあるのが見えた。
そして、左手には奥へ続く細い通路があった。
「巡礼者はこの突き当りの鏡の部屋を見に来るのだ。」
モーリスは左手に向かって歩いていく。
正面に古びた扉があった。
「この奥が鏡の部屋だ。君に使ってもらう部屋はこちらだ。」
モーリスは通路に面した扉を引いた。
そこは細長い部屋で、入口の向かいの窓から日が差し込んでいた。
部屋の中はがらんどうで一つも家具がなかった。
尤も、寝台を入れたら部屋の半分が埋まってしまいそうだった。
「眠るだけの部屋だ。暖炉がないから毛布を余分に使うと良いだろう。」
「はい。」
「居間の自分の寝台をここへ運びなさい。終わったら鏡の部屋を掃除だ。」
「わかりました。モーリス…先生。」
ラップは新しい師をどういう風に呼ぶべきかと戸惑った。
「ああ、それはよせ。私はそういうのは好かんのだ。」
モーリスは自分の顔の前で手を左右に振った。
「では、どう呼べば良いでしょうか。」
ラップが尋ねるとモーリスはニヤッと笑った。
「モーリスで良い。」
「先生を呼び捨てには出来ません。」
ラップが抵抗すると、モーリスは肩をすくめて付け足した。
「呼び捨てに出来ないと言うなら、心の中で呼んでくれ。先生でも師匠でも何でも構わん。レオにもそう言ってあるのだ。」
何と乱暴で大雑把な指示だろう。ラップはしばらく返事ができなかった。
「わかったかな、ヘブン。」
モーリスの方が尋ねてきた。
「わかりました、モーリス先…モーリス。」
ラップは心の中で先生とつぶやいた。
「うん。よろしい。」
モーリスは満足そうに頷いた。

二人は廊下へ出た。
「向かいは書庫だ。」
モーリスはラップの部屋の真向かいにある扉を示して言った。
「古い本も多いが、巡礼者が置いていった流行小説などもある。まあ、全巻揃っているような事はないがな。」
「読んでも構いませんか?」
ラップは書庫と聞いて期待に胸が膨らむのを感じた。
「出入りは自由だ。程々にするのだぞ。」
モーリスはラップの嬉しそうな顔を見てそう答えた。

ラップは数回に分けて寝台を自分の部屋へ運び入れた。
寝台は、窓に近い明るい場所へ置いた。
それから余分の毛布を受け取り、生活に使う物を入れる小さな棚ももらって運んだ。
「そう言えば、荷物はないのか?」
モーリスが尋ねた。
ラップは頷いてうつむいた。
「急な事だったので、全部置いてきてしまいました。」
小さな声で答えた。
元々わずかしかない荷物は、テュエールの町外れの洞窟に置いたままだった。
子どもの頃にもらった地図も、館を出て放浪中に手にした関所の通行証もそこにある。
湿って使い物にならなくなった薬草もあるだろう。
今のラップには、取りに戻る気力はなかった。
形のある思い出は、もう一つもなくなってしまった。
「そうか。」
モーリスはラップの消沈した様子を見て、それ以上追求してこなかった。

「何枚か着替えが要るな。城下へ頼みに行こう。」
モーリスはラップに持ち掛けた。
「え、僕も行くんですか?」
ラップは拒否感もあらわな反応をした。
「当たり前だ。本人が行かなくては大きさがわからんだろう。」
モーリスはごく当たり前の指摘をした。
「でも、町へ行くのは…。」
ラップは言葉を濁した。
普通の人がたくさんいる場所。そう考えるだけで、ラップには気後れがしたのだ。
「これも君の修行の一つだと思いなさい。」
モーリスが言った。
ラップはハッとしてモーリスを見た。
「魔法使いでない人々を避けて生きて行く事は出来ないぞ。それこそ、山奥にこもって自給自足の生活でもしない限りはな。」
モーリスは諭すように言った。
「…実はそれも考えました。」
ラップはおずおずと言った。
「ほう。それで結論は?」
モーリスが追求した。
「僕は、人の中で生きていきたいです。」
ラップはきっぱりと答えた。
「答えは出ているではないか。そうやって怯えていては理想に近づけないぞ。」
「…はい、モーリス。」
ラップは答えたものの、胃の中に重い石があるような気分だった。

シフールの城下町は、首都とは思えないくらい小規模で、素朴な町並みだった。
とはいえ往来には人の行き来があり、あちらこちらの店先では値引きの交渉やら、威勢の良い呼び込みなどが行なわれていた。
ラップはモーリスの後ろについて町の入口までやってきたが、城下の開けた街並みを見た途端、足がすくんでしまった。
『どうして…!』
足が岩になってしまったかのように重かった。
持ち上げようと意識しても、まるで自分の足ではないように自由にならなかった。
「ヘブン、どうしたね?」
ラップが付いて来ないのに気付いて、モーリスが振り返った。
「あの…動けません。」
ラップは訴えた。
モーリスは目を丸くし、それから表情を和らげてラップの傍らへ戻ってきた。
「怖いかね?」
ラップの目を覗き込んで聞く。
ラップは首を横に振った。
「怖くはないです。でも、足が動かないんです。」
「そうか。」
モーリスはちょっと頭を掻き、それから目の前の通りの一箇所を指差した。
「ヘブン、見えるかな。あそこにいろんな布を吊るしている店があるだろう。」
ラップはモーリスの指先の示す方を見た。青や緑、白や黄色の布地が風に旗めいているのが見えた。
「あそこが仕立て屋だ。近いだろう。ほんの少し、あそこまで行けば良いだけだ。」
「は、はい。」
ラップは店の方に足を踏み出そうとした。
だが、足は動かなかった。
ラップは困惑して自分の足元を見下ろした。
まるでそこに、自分の怯える心が重石になって乗っているようだった。
それとも心は怖いと思っていないのに、体だけが恐怖を感じているのだろうか。
『怖くないよ…。怖くないから……。』
小さな子どもに言い聞かせるように、ラップは自分の体に向かって念じた。
力を込めて片足を動かし、そろそろと、小さく一歩、前に歩いた。
『歩けた。』
ラップは小さく笑みを浮かべた。
その肩に、モーリスの暖かな手が添えられた。
ラップはモーリスを見上げた。
「よしよし、その調子だ。私が一緒に付いているからな。」
「はい、モーリス。」
ラップは再び歩くことに集中した。
モーリスの存在を感じているためか、先程より足がいうことを聞くように感じた。
そうして、一歩一歩、仕立て屋に進んでいった。

長い時間を掛けて、やっとの思いで仕立て屋に着くと、店の主人が待ちかねた様子でモーリスに声を掛けた。
「いつもの小僧と違うじゃないですか、モーリスさん。」
自分が観察されているとわかって、ラップはモーリスの陰に隠れてしまいたい衝動に駆られた。
「新しい弟子だよ。すぐに着られる物が欲しいんだがね。上着もズボンも肌着もだ。急いで作ってもらえないかな。」
「おやまあ、大量だねえ。じゃ、寸法を採らせてもらおうかね。」
奥にいた女将が採寸紐を持って出てきて、手早くラップの体を測りだした。
「この子はそろそろ背が伸びだすんじゃないかしらね。坊や、何歳?」
女将が聞いた。
「え…と、13、です。」
ラップは体に触れられて緊張に固まっていたが、やっとの思いで女将に答えた。
「少し大き目に作った方がいいわよ、お客さん。」
女将は主人と布を広げて話し込んでいるモーリスに言った。
「うん、長く着られるやつがいいな。動きやすくて、暖かくて、丈夫で長持ちが一番だ。」
モーリスが言った。
「丈夫な生地で作ったって、すぐに破くのが子どもですよ。さて、これでいいわ。」
女将は採寸をし終わると、新しい紙を取り出していくつか書き付けた。
「ヘブン、好きな色はあるか?」
布を選んでいたモーリスが尋ねた。
ラップは首を横に振った。
「特にありません。」
「遠慮しなくていいんだぞ。」
モーリスは広げた布の前にラップを手招いた。
鮮やかな青や赤や黄色の布が目に飛び込んできた。
ラップはそれらの派手な色は選ばず、薄い草色やベージュの布を選んだ。
「落ち着いた色が好きなんだな。じゃあこれで作らせてもらうよ。」
店の主人がラップの選んだ布を取り上げて、女将の書いた書き付けの隣に置いた。
「よろしく頼むよ。」
モーリスが会釈をし、二人は店を離れた。

「さて、帰ったらシャリネの掃除だな。」
「はい。」
モーリスの後ろについて歩きながら、ラップは答えた。
「そう言えば。」
急にモーリスが立ち止まった。
ラップは何事かとモーリスを見た。
「帰り道は苦労しないようだな、ヘブン。」
モーリスはラップに笑いかけた。
「あ…。そうですね。」
ラップは全く問題なく歩いていた事に気付いた。
「もう平気です。」
ラップは笑顔でモーリスに答えた。

「モーリス! ヘブン! どこに行ってたの!」
二人がシャリネの見えるところまで歩いてくると、レオが大きな声を上げながら走ってきた。
「ちょっと城下へ行ってきたのだ。」
モーリスが答えると、レオは頬を膨らませて二人を睨んだ。
「ちょっとじゃないっ。いつまでたっても戻ってこないんだもの!」
ラップは、初めて見るレオの剣幕に目を見張った。
心配させて悪かったと思うと同時に、おとなしく笑顔を振り撒いているよりも、率直でかわいい姿だと思った。
「ああ、ちょっと手間が掛かってしまったからな。しかし、そう怒鳴らんでも良いだろう。」
モーリスはレオの頭に手を乗せて、くしゃっと髪を掻き回した。
「だって…。」
レオはちらちらっとラップの方を見た。
「居間の掃除は終わりました、モーリス。あとはシャリネの中だけです。」
レオはそう言って、モーリスの手から逃れた。
「おお、そうか。じゃあヘブン、シャリネの掃除をしよう。レオは昼の支度まで遊んでよいぞ。」
「わかりました。」
ラップは答えた。
「やったー。」
レオも嬉しそうに家の中へ戻っていった。

ラップは箒と雑巾を持ってシャリネの鏡の部屋へ入った。
「うわ…。」
そこは思いのほか広い部屋だった。
同じ大きさの石が整然と敷かれていて、部屋の中央にはひときわ大きな石が嵌めこまれていた。
石の中央には、そこだけ漆黒に彩られた丸い穴が開いていた。覗き込んでもどれ程深いのか、さっぱり窺えなかった。
他のシャリネのような祭壇はなく、キョロキョロと部屋を見回したラップは、足元の大きな石がこのシャリネの鏡なのだと気が付いた。
よく見れば、石の前の床は微妙に磨り減っていた。長い間にここを訪れた人々が、その場所に最も多く足を運んだ印だった。
「オルドスのシャリネより、ずっと立派です。」
ラップは後から入ってきたモーリスに言った。
「そうなのか? 私はここしか見た事がないのでよくわからん。」
「オルドスのシャリネはとても古くて、建物が壊れそうな感じでした。掃除も、巡礼の来る秋しかしていないんですよ。」
ラップが話すとモーリスは大げさに驚いて見せた。
「巡礼者が聞いたら悲しむ話だな。まあ、巡礼といっても数える程しか来ない場所だが。さて、始めようか。」
モーリスは自分も雑巾を手に取った。
「まず、周りの高い所のほこりを取るんだ。それから床を拭いて、最後に鏡を磨く。」
「はい。」
「この辺がレオでは届かないんだ。」
モーリスは、部屋の周囲の飾り物を拭き始めた。
モーリスの作業を見て、ラップも同じように飾り物を拭き始めた。
一番高い所にうっすらとほこりが積もっていた。
ラップは丁寧にほこりを拭き取った。

「モーリス、お城の人がみえました。」
レオが顔を覗かせて、モーリスに来客を告げた。
「わかった。すぐに行く。待っててもらいなさい。」
「はい、モーリス。」
レオは返事をすると足早に戻っていった。
「ヘブン、あとの手順はわかるか。」
モーリスは扉へ向かいながら言った。
「はい、モーリス。大丈夫です。」
「鏡は曇りのないように綺麗にするんだ。」
「わかりました。」
ラップは一人になると、床を箒で掃き、巡礼者の使う正面の扉から外にほこりを掃き出した。
それから新しい雑巾を使って部屋の中央にある鏡を拭いた。
大きく滑らかな表面を持つ鏡は、オルドスのシャリネにあった物と違って、毎日磨かれて美しく光っていた。
巡礼の人たちはこの鏡で何を見るんだろう。
ラップはそんな事を思いながら、せっせと手を動かした。

「終わりました。」
ラップは居間に戻ってモーリスに報告した。
シフール城の人はもう姿がなかった。
「うん、ご苦労。これから毎日掃除をするように。」
モーリスは今届けられたものなのか、書類の束を読みながら言った。
「はい。」
ラップは頷いた。
「ヘブン、次は薪拾いをしてもらう。」
モーリスが目を上げずに言った。
「暖炉で使う薪ですか?」
ラップは聞き返した。
「暖炉と台所、両方で使う分だ。台所に薪拾い用の籠があるからそれに一杯集めてくれ。」
「はい。」
「これも毎日頼む。危険な場所には行かないように…。」
途中まで言い掛けて、モーリスは書類から顔を上げた。
「君なら森に入っても大丈夫かな。この辺りは町の側でも魔獣が出るので、レオには森へ入らないように言ってあるのだが。」
「あまり奥には入り込まないようにします。」
ラップは答えた。
「うん、そうしてくれ。天気の悪い日は休んでよいが、晴れた日には倍集めるようにな。」
「わかりました。では行ってきます。」

ラップは台所へ立ち寄って、かまどの側に一抱えもある大きな籠を見つけた。
手斧が一緒に放り込んであった。
かまどの横に積み上げられた薪を見ると、あまり太い物は多くなかった。
細い木の枝は、きっとレオが集めたものだろう。
丸太を割った大きな薪はモーリスが割ったものに違いない。
ラップは籠を抱えて外へ出た。
シャリネの周囲を歩いてみると、目ぼしい枯れ枝は殆ど残っていなかった。
そこでラップは木立の中へ入っていった。
振り返ってもシャリネが見えなくなるくらい奥へ入ると、拾われていない枯れ枝が見つかるようになった。
ラップは種類を問わずにそれらを拾い集めた。
自分で切り落とせそうな枝を見つけると、斧を振るった。
無心で体を動かすのは気持ちが良かった。すぐに汗が噴き出してきた。

森を進んでいくと、不意に前方が開けてシフールの町並みが視界に入った。
「あっ…。」
ラップはハッとして立ち止まった。
いや、立ち止まったのではなかった。また足がすくんで動かなくなってしまったのだ。
胸がドキドキと鳴り出した。
ラップはそっと胸に手を当てた。
深呼吸を繰り返していると、だんだん鼓動は落ち着いてきた。
ラップはため息をついた。やはりまだ怖いのだ。
人が、町にいる普通の人たちが怖いのだ。
ウェルに言われた言葉を思い出した。
『俺たちの暮らしに入ってくるな。』
冷たい言葉だった。
魔法使いだと知らせずに、温かなもてなしを受けてしまった後だったから、ウェルの言葉は余計に重く、厳しく感じられた。
心が通じたと思っていても、それをも断ち切ってしまう魔法への恐れ、嫌悪感。
無理もないかもしれない。人の命を奪ってしまうほどの力なのだ。
ラップ自身、あの時の魔法の力には恐ろしさを感じるのだ。
だがラップにとっては、忘れたり切り離したりすることの出来ない、自分の力だった。
シフールの人たちも、今はまだラップが魔法使いだと知らない。
だが、モーリスに師事するからには、遅かれ早かれ魔法使いだと知られるようになるだろう。
そうなったら冷たい視線の中で暮らすことになるに違いない。
町へ足が向かないのは、少しでも傷を浅くしておきたい心の現われだとラップは思った。
後で消えてなくなる温かさなど要らない。
これ以上悲しみを重ねたくない。
ラップはくるりと向きを変え、町並みを背にしてまた森へ入っていった。

籠を一杯にしてシャリネへ戻ると、昼食が出来上がっていた。
ラップは薪を居間と台所へ半分づつ積み上げてから、暖かなシチューをご馳走になった。
食べる物が確保されているというのは、なんと有り難いことだろう。
「ご馳走様。とても美味しかったです。」
ラップは残さず平らげてモーリスとレオに礼を言った。
レオが嬉しさをこらえきれない様子で笑った。
「普通の食事で大丈夫そうだね、ヘブン。」
確認するように問われて、ラップはおかゆではなく普通の物を出されていた事に気がついた。
「大丈夫みたいだ。…レオ君、病気の時の食事に詳しいんだね。」
ラップが言うと、レオは少し憂いを帯びた表情をした。
「うん、ずっと母さんの食事を作っていたから。」
「あ……」
ラップは不用意な事を言ったのに気がついた。
モーリスはレオに身寄りがないと言っていた。
だとしたら、レオの母親はすでに他界してしまったのだ。
「ごめん。悪いことを聞いたね。」
ラップはレオに謝った。
視線が合うのは怖かったが、なるべく顔を高く上げて言った。
「ううん、もう平気。それに、食事を作っていたおかげでモーリスに雇ってもらえてるんだもの。母さんにはいつもありがとうって言ってるんだ。」
「レオ、それでは私が料理の腕に惹かれてお前を置いているみたいじゃないかね。」
横からモーリスが口を挟んだ。
「だってそうじゃないんですか? 僕は他に自慢できることもないし……ヘブンみたいに魔法使いでもないし…。」
レオは上目遣いにモーリスを見た。
「魔法など関係ないさ。私は役に立つとか立たないとかで同居人を選んだりせんよ。レオは真面目に働いてくれるではないか。」
「そうなんだ…。じゃあ料理が下手でも良かったんですか、モーリス?」
レオは食い下がった。
「食事は美味い方が嬉しい。なんだ、今日は機嫌が悪いのかね、レオ?」
「そんなことないです。ご馳走様っ。」
レオは会話を打ち切るように、自分の食器を持って台所へ駆けていった。
やはり気に障る事を言ってしまったかなと、ラップは反省した。
「うーむ、子どもの気持ちはなかなか図り難いな。」
モーリスがぼやいた。
「そうですね。」
ラップは同意し、食器を片付けるために立ち上がった。

午後は、レオがモーリスに読み書きを教えてもらう時間になった。
ラップは自由な時間を与えられて、シャリネの書庫を覗く事にした。
扉を開くと、冷えた空気の中に書物の放つ紙の匂いが満ちていた。
懐かしい空気だった。
決して広い書庫ではなかったが、書棚にはぎっしりと本が詰まっていた。
ラップは手近な棚に歩み寄って背表紙に書かれた題名を読んだ。
古い伝承の本、歴史の本、とっつきやすい流行小説の本。様々な本が無秩序に並んでいた。
中には古代文字の本もあった。
ラップは適当に数冊の本を抜き出して自室へ戻ると、寝台を椅子代わりにして座り込んだ。
一冊目の本は小説本だった。続き物の途中のようだ。
失踪した父親を探す王子が、仲間を得て地下帝国に侵入していく。
立ち塞がる敵を打ち払ったところで、本が終わってしまった。
もう一冊はウドルの国の昔の様子を伝えていた。
深い森林を持ち、自然と共存しながら発展していくウドルの様子が綴られていた。
更にもう一冊に手を伸ばしたとき、部屋のドアがノックされた。
「はい。」
ラップは立ち上がってドアを開いた。
モーリスが立っていた。
「レオは書き取りをしているのでな。君の魔法を見せてもらえないか。」
ラップは気が引き締まるのを感じた。
「わかりました。」

ラップはシャリネの前の空き地に出た。
「君は、杖をどうしたんだ?」
モーリスが尋ねた。
ラップは首を振った。
「ずっと素手で魔法を使ってきました。…杖は要りません。」
初めて杖を使ったときに苦い経験をした。その過ちを忘れることはできない。
「自分に合った杖を持てば大層役に立つぞ。」
「いえ、このままでいいです。」
魔法の杖が頼りになる物だという事はわかっていたが、自分で持ちたいとは思わなかった。
「そうか。」
モーリスはラップが頑なに断る理由は聞いてこなかった。
「では見せてくれ。扱える魔法を一通りだ。」
「はい。」
ラップは息を整え、右腕を体の前へ伸ばした。
「かまいたち!」
腕を軽く振ると、風の刃がいくつも周囲の木立に向かって飛んだ。刃は木の葉のみならず、細い枝も切り落とした。
ラップはモーリスを見た。モーリスは次を促すように黙って頷いた。
ラップは目の前の木に向かう風の軌道を脳裏に描いた。
「竜巻!」
両手で押し出すように放った風の渦は、狙ったとおりの軌道をたどって目標の木を揺らした。
「風の強さは手加減しているのか?」
モーリスが聞いた。
ラップは頷いた。
「木を折らないように抑えています。」
「わかった。次。」
「はい!」
水球、雷撃と、ラップは覚えた魔法を放っていった。
次は火の玉を繰り出そうと意識したとき、急に背筋がゾクッと震えた。
『!!』
ラップは動揺した。
ただの火の玉だ。あのとき繰り出そうとした炎の渦より、ずっと小さい初歩の魔法なのに…。
ことさら慎重に、ラップは手の平に火の玉を作り出した。
揺らめく火は拳を握れば隠れてしまうくらい小さかった。
しかし、ラップにはそれが自分を包み込むほどに膨張する気がしてならなかった。
「うう…。」
ラップは火を見据えたまま動けなくなってしまった。

モーリスはその様子を目を細めて見守った。
『火か。』
この若い魔法使いが人を殺したという魔法は、火を操るものだったようだ。
その時の記憶を呼び起こしてしまったのか、術を放つ事ができずに火を睨みつけている表情は鬼気迫るものがあった。
「うわああっ!」
しばらく火の玉を睨み続けた後、ラップは火の玉を地面に向けて叩きつけた。
真下に向かって放たれた魔法はラップの足元の地面をえぐり、土が勢いよく四方に飛び散った。
ラップは大きく息をし、地面にあいた穴を見据えた。
まるでそこに姿の見えない敵がいるかのような表情だった。

やがてラップは顔を上げた。
「すみませんモーリス。失敗しました。」
ラップは言い訳をしなかった。ただ事実だけを述べて唇を噛んだ。
それは、彼自身が自分の状況について助言を求めていない表れだろうとモーリスは受け止めた。
「うむ。わかった。」
モーリスは答えた。
一人で解決の道を探ろうとする姿勢があれば、道は見えてくるだろうと考えた。
ほかの魔法の水準は申し分ない。火が扱えなくとも、この辺りで魔獣と戦うには十分だ。
「他に使える魔法はあるか。」
モーリスは尋ねた。
「え、は、はい。あとは、空を飛ぶ事くらいです。」
ラップは意外だという表情で答えた。
「見せてくれ。」
モーリスは冷静な声で促した。

モーリスは、失敗した火の魔法について何も言ってくれなかった。
ラップはがっかりした。
小さな火の玉にさえ動揺してしまったのに、何の助言も、失敗の原因を問いただされる事もなかった。
『僕がひとりで何とかしなくちゃいけないのか…。』
原因は自分にあるのだから、確かに自分で解決するべき事なのだろう。
だが、ラップは一言でもいいから何か言ってもらいたかった。恐ろしさを克服する手掛かりが欲しかった。
モーリスに期待し過ぎているのだろうか。とても心細かった。

ラップは、とりあえず不安を心の中に押し込めた。
飛行魔法を見せなくてはいけない。
呪文を知らなくても使えた風や水の魔法と違って、飛行魔法は呪文を覚える事で使えるようになった魔法だった。
ラップは空に浮かぶ自分をイメージしながら呪文を唱えた。
大地の束縛から解き放たれ、風のように身軽に舞い上がることを望んだ。
体半分くらい、空中に浮かんだ。
ラップはそのまま空中を移動してモーリスの前へ着地しようとした。
半分も移動したとき、扉が開かれてレオが走り出してきた。
「モーリス、終わりました! ああっ!」
書き取り帳を胸に抱えたレオは、ラップが浮かんでいるのを見つけて大声を上げた。
「!!」
ドキリとしたのはラップも同じだった。
レオに魔法を使っているところを見られるとは予想しなかった。
「あっ!」
集中力が途切れたせいか、ラップは浮力を失って地面に尻餅をついた。
「あ…ごめん。僕が大声を出したから。」
レオはラップに走り寄った。
「いや、僕の集中力が足りないせいだよ。」
ラップは言い返した。
「そうなの? でも、ごめんなさい。驚かせちゃった。」
レオはラップの腕を取って引っ張り起こそうとした。
ラップは緊張して表情をこわばらせたが、レオは気付かないようだった。
ラップはレオを見た。ここへ来て初めてかもしれない。まじまじと見つめた。
目の前で魔法を見たのに、レオの様子は今までと変わらなかった。
魔法を見慣れているとモーリスは言ったが、本当にそうなのだ。
レオに助けられてラップは体を起こした。
「ありがとう。」
ラップはレオに向かってはにかんだ。
初めてレオのことを怖くないと感じていた。

(2010/3/3)
(2011/7/23改訂)

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