ヘブン 第4話:ミッシェルさん捏造企画
最終更新日2011年7月23日
ヘブン
第4話
こうして、ラップの新たな生活が始まった。
テュエールでの一件について、心の落ち着く間もない事だった。
だがラップは、数年ぶりに魔法の指導を受けられることが嬉しかったし、心の傷を忘れられる時間が持てることも有り難かったので、積極的に修行に取り組んだ。
モーリスがシャリネにいる日には直接指導を受けた。
癒しの館で学んだことを基礎とするなら、モーリスの魔法指導は応用と実践を念頭に置いた、対戦重視のものだった。
最初に与えられた課題は、水球をモーリスに当てることだった。
木や石に向けて魔法を放つのと比べ、常に動くものに魔法を当てるのは格段に難しかった。
相手の動きを読み、先回りする必要があった。
ラップが上手く狙えるようになると、モーリスはその水球を打ち返してきた。
ラップは反撃に当たらないよう、素早く身をかわした。
反撃のタイミングはある程度予測できる。
あとはどの方向に反撃が来るのかを見極めて、かわすか、あるいはまた打ち返すかすれば良かった。
ラップは毎回びしょぬれになったが、修行の度に、その度合いは少しづつ減っていった。
身のこなし方が上達していくのが実感できてラップは嬉しかった。
モーリスが居ないときは、森の木を相手に魔法を使ったり、体力作りにいそしんだ。
モーリスはシフール城の書記として一日おきに城へ通っていた。
だが、持ち出せる書類ならばシャリネへ持って帰ってきた。
そのようにして、少しでも多くの時間、レオやラップの側にいてくれた。
元々は旅人で、城下町で書類の作成や手紙の代筆をしていたところを、城の役人の目に留まったのだそうだ。
モーリスは魔道師であることを隠さず、城へ出掛ける時はマントを羽織り、杖を携えていた。
魔法が周囲を恐れさせる事も承知していたので、城下に住む事は自ら辞退し、シフールのシャリネの管理人として町外れに住む事を選んだのだ。
ちょうど同じ頃、母親を亡くしたレオは身寄りもなく、生活に困っていた。
それを知ったモーリスは日常の小間使いとしてレオを引き取った。
ラップがここに来る、半年ほど前の事だった。
シャリネの暮らしは決して豊かではなく、レオとラップは日の出と共に起き、日没と共に床に入った。
夜間、ランプやろうそくを使って起きているのは、もっぱらモーリスだけの特権だった。
ラップは文字が読めなくなるまで窓辺に粘って本を開いている事も多かった。
魔法で火を起こせば、ろうそくを使わなくても明かりを得られたが、ラップは残念な事に火の魔法への恐れをなかなか克服できなかったのだ。
必要にかられない限り、火の魔法を使うことはなかった。
床に入ってから眠れなかったときも、暗闇の中で夜明けを待った。
テュエールの事件の記憶は度々よみがえり、ラップの眠りを妨げた。
夢か現実かあいまいな時間の中で、命を落としたグリムゾンの恨みつらみを聞き、ときにはラップを恐れた住人たちの冷たい視線に耐えた。
いつになっても、忘れたり、記憶が薄れるということがなかった。
この重荷をずっと背負って生きていくのかと、辛い思いも抱えたままだった。
そんなある夜、眠れなかったラップは、ふらりとシャリネの鏡の部屋を訪れた。
ラップがここへ来てから、ただ一人の巡礼者も鏡を見に来ていなかった。
毎日掃除をしながら、見る者のいない鏡をいささか不憫に感じていた。
ラップは毛布を体に巻きつけて鏡の横にうずくまり、鏡を覗き込んだ。
淡い星明りに照らされて映るのは、鏡を見ているラップ自身の姿だった。
魔法修行をしている時間の充実ぶりとは打って変わり、課せられた重荷に疲れを感じている姿だった。
苦しみを克服したいと願っても、なかなか抜け出せない。
修行をしているとき、読書に没頭しているとき、日々の仕事に取り組んでいるとき。そんなときには忘れていられるようになった。
だが、取り組むものがなくなったときによみがえってくる。
どうしたらこの辛さから開放されるのか、ラップは答えを見つけられなかった。
モーリスは最初に事実を打ち明けて以来、立ち入った事には触れてこなかった。
レオはまだ、人を殺めた苦しさなどを話せる年齢ではなかった。
いや、たとえ年齢が相応だったとしても、そこまで打ち解けた仲でもなかった。
結局ラップはひとりぼっちだった。何でも話せる友だちがいなかった。
一体どうしたらいいのか。
ラップの思考はそこで止まり、何も思い浮かばない空虚な時間が流れた。
ラップはハッと気付いて片手を頬に当てた。
いつの間にか、涙が頬を伝っていた。
声を出して泣くではなかった。涙だけが止まらずに頬を伝い落ちているのだった。
悲しみの涙なのか、もっと別のものなのか、ラップにはわからなかった。
抱えたものはあまりに大きく、ラップの心はそれを受け入れるだけのゆとりを持っていなかった。
泣きわめいても、どうにもならない。
ただ涙が止まらないのを甘んじて受け入れるだけだった。
鏡は、そんなラップの姿をただうっすらと鏡面に映していた。
春が過ぎ、夏の暑さを感じるようになった頃、ラップの魔法修行は新たな段階に入った。
モーリスとラップが同時に攻撃を仕掛けるのだ。
お互いに相手の隙を狙って水球を放つ。
シャリネの敷地一杯を使って、実戦さながらの修行が繰り広げられた。
レオは恐れを感じたのか、建物から出てこなかった。
いや、ひょっとしたらモーリスが外に出るのは危険だと伝えていたかもしれない。
モーリスの攻撃を避け、その合間に自分の攻撃を加えるのは、一瞬の判断で行動を決め、また次の瞬間にはその判断を変更しなくてはならないという事だった。
モーリスは強かった。
魔法そのものの力はもちろんだが、すばやい身のこなしと、先を見越せない攻撃のタイミングを看破するのは難しかった。
修行を重ねる度に、ラップの神経は研ぎ澄まされていった。
どのように集中すれば相手の動きを予測できるのか。漫然と見ていては難しい。自然と観察のポイントを探るようになった。
陽動に迷わされないよう、四肢の動き、力の溜め具合に気を払うようになった。
相手の動きに癖を見つけることも覚えた。
そうやって覚えたいくつかの攻撃ポイントは、逆にラップが自分の攻撃や行動を行なう際の気配りにつながった。
攻撃を加える気配に満ちていたらかわされる。
意表を突くことができれば成功率は高まる。
どれも至極当然の事であったが、実地に体感して覚えたことは着実に身に着いて、少なからぬ自信の源になってくれた。
シャリネの敷地の一角では野菜を育てており、夏になって収穫の時を迎えていた。
夕食後、日の落ちるまでの間に、三人は連れ立ってそれらの収穫や手入れをするのだった。
「モーリス、これはもう採っていい?」
レオは自分の背より高いトウモロコシの間から顔をのぞかせてモーリスに尋ねた。
「うん? ああ、もう少し熟すまで待った方が良いな。ここのヒゲが茶色く枯れた頃に美味しくなるのだ。」
モーリスはレオの指さしたトウモロコシの、実の先端から垂れている白いヒゲを見て言った。
「うーん…じゃあ、こっちのはどうですか?」
レオは別の茎に実った、ベージュ色のヒゲを垂らしたトウモロコシを見せた。
「これももう少しだな。」
モーリスは丁寧に答えた。
「よくわからないや。」
レオは額にシワを寄せて首をかしげた。
「ははは。最初はそんなものだ。」
モーリスは笑った。
ラップは二人から少し離れた場所でトマトやピーマンを収穫していた。
収穫の頃合いのものは沢山あったが、明日食べる分だけ採れば良いのだ。
熟れ過ぎてダメにしてしまわないように、一番熟れたものを選んで摘んでいた。
その様子を見て、モーリスはレオに言った。
「レオ、ヘブンを見てごらん。よく観察しているだろう。食べ頃を過ぎないように熟れたものから採っているぞ。」
ラップは自分の名が出たので顔を上げた。
ヘブンという仮の名前も、随分と呼ばれ慣れてきていた。
「僕だって、トマトやピーマンなら分かります。トウモロコシを育てるのは、今年が初めてなんだもん。」
レオは頬を膨らませた。
「だからよく観察するのだよ、レオ。誰だって最初は見よう見まねで覚えるものだ。」
モーリスはレオに言った。
レオは文句を言いたげに顔をしかめた。
「僕が変なのを摘んじゃうより、ヘブンに摘んでもらった方が良いに決まってる!」
レオはくるりと向きを変えるとシャリネへ駆け込んでしまった。
「こら、待ちなさい、レオ。」
モーリスが呼んでもレオは立ち止まらなかった。
「むう、困った奴だ。」
モーリスはつぶやいた。
ラップは二人のやり取りを黙って聞いていたが、口を挟むこともないと思ってまた野菜に向き合った。
「レオも自立心が出てきたのかも知れんな。この頃素直でなくなってきた。」
モーリスは重ねてつぶやいた。
ラップは再び顔を上げてモーリスを見た。目が合うと、モーリスは肩をすくめて見せた。
「日が沈むまで少しある。魔法の実践といくかね?」
「は、はい。」
嬉しい申し出だった。
ラップはそそくさと立ち上がって、野菜カゴを台所へ片付けに行った。
「レオに、中にいるように伝えなさい。魔法を使うからと言ってな。」
モーリスが後ろから声を掛けた。
「わかりました。」
ラップは振り返って返事をした。
野菜を置いてから建物の中を探すと、レオは居間でテーブルに突っ伏していた。
「レオ君、今から魔法の修行をするから、中に居て欲しいんだ。」
ラップが言葉を掛けると、レオはのろのろと顔を上げた。
恨めしそうな、羨ましそうな表情が見て取れた。
「いいかい?」
返事がなかったので、ラップは確認の為に問いかけた。
レオは黙ったまま、こくんと頷いた。
それを確認してラップは建物の外へ出た。
モーリスは愛用の杖を手にしていた。
ラップは素手のままだ。
それでも、何とか数回は魔法の応酬を続けられるようになってきていた。
「よろしくお願いします。」
ラップはモーリスに一礼した。
「始めよう。」
「はい!」
ラップは片足を半歩前に踏み出し、少し姿勢を低くして相手の動きを見た。
モーリスは杖を高く掲げて水球を飛ばしてきた。
足元を狙ってきたそれを、ラップは飛び上がって避け、そのまま高い位置から自分の水球を放った。
着地して、その場には止まらず、右手へ回り込みながら威嚇の水球を続けざまに投げる。
モーリスはそれらを難なくかわして遠い距離から次の一撃を放ってきた。
ラップの行く手をさえぎるような一撃だ。
ラップはぎゅっと足に力を込めて、前へ出ないように踏みとどまった。
その鼻先を、モーリスの水球がかすめていった。
ラップは体をよじるようにしてモーリスの居る方向に向き直った。
体を回転させた軸足から、反対側の足にどんと体の重さがかかった。これではすぐさま次の動作に移れない。ラップはモーリスの動きを注視した。
モーリスは、すでに攻撃を放つ体制に入っていた。
跳んでかわすには遅すぎた。
受け止める覚悟をする一方で、ラップは正面から水球を投げつけてモーリスの手元を狂わせようと試みた。
全く効果はなかった。
モーリスの杖の一振りで、ラップの放った水球は煙のように霧散した。
「え?」
その消え方に違和感を感じた瞬間、モーリスが杖を振り下ろすようにして次の一撃を放ってきた。
結界で防ごうと両腕を前に構えたラップは息を呑んだ。
モーリスの杖から放たれたのは水球ではなく、紅蓮の炎が渦巻く火球だった。
全身に鳥肌が立った。
何も頭で考えられなかった。
前に突き出した両腕から、ラップは反射的に風の刃を力一杯に放っていた。
二つの力がぶつかり合いドンと大きな衝撃が走った。
風は炎を切り裂き、ラップに届く前に火球を四散させた。
そして、勢い余った風の刃の一部はモーリスに襲いかかった。
「むうっ!」
モーリスは自分の周囲に結界を張って防戦したが、風を押さえ込むことは出来なかった。
結界が破れ、モーリスはあおりを食らって地面に弾き飛ばされた。
ラップは大きく肩で息をついた。
今頃になって恐怖感が込み上げてきた。
疑問も湧いた。何故モーリスは炎を使ってきたのだろう。
そこでハッとしてモーリスを見た。
モーリスは額を押さえながら上半身を起こそうとしていた。
指の間から鮮血が垂れていた。
「モーリス! 大丈夫ですか?!」
ラップは叫んでモーリスに駆け寄った。
「今の音、何? …ああっ、モーリス!」
建物から顔を覗かせたレオが、モーリスが倒れているのを見つけて飛び出してきた。
「ううむ…、強烈だったな。」
モーリスは額にシワを寄せてつぶやいた。
「どうしていきなり火の魔法を使ったんです!」
ラップはこみ上げてきた怒りに任せてモーリスに問い質した。
「モーリス! 血が出てる! どうしたの?!」
ラップのすぐ後ろから、レオが叫んだ。
「ああ、このくらい何ともない。」
モーリスは心配そうに覗き込むレオに答えた。
レオは納得しなかった。
「全然大丈夫じゃないよ!」
レオは顔を赤くして叫んだ。
「火を使うと予告したら、君は手加減無しの攻撃をしてくれんだろうと思ってな。」
モーリスはラップに向かって言った。
「あれが君の本気かな。」
モーリスに聞かれて、ラップは考えた。
とっさの攻撃で、力を抑える余裕はなかった。
でも、感情に任せて魔法を使ったときとも違うような気がした。
「手加減する余裕はありませんでした。」
ラップは答えた。
「…ふむ。」
モーリスはじっとラップを見た。
その視線は、ラップすら知らぬ自身の奥底を見つめているようだった。
「まだ底が知れんようだな。まあいい。強い力だった。」
モーリスは立ち上がろうとして少しふらついた。
ラップとレオが揃ってモーリスの体を支えようと手を伸ばした。
「これ、ヘブンがやったの?」
レオがモーリスの上着の裾を握り締め、ラップをひたと見据えて言った。
「……レオ君。」
ラップはレオのいつになく真剣な剣幕に言葉をなくした。
「レオ、これは魔法の修行だ。私が仕掛けて、返り討ちにあった。それだけのことだ。」
モーリスのその言葉に、ラップは目を見張った。
まるで負けたかのような言い方をモーリスがするのは初めてだった。
「確かにその魔法力では、ここで修行を続けるわけにはいかないな。そのうちにシャリネを壊してしまうだろう。」
モーリスは含むような笑いを漏らした。
「森の中へ修行場を変えるべきだな。君は全力を扱うことにも慣れた方が良い。」
そう言ってラップを見つめるモーリスの瞳は、決して笑ってはいなかった。
これからの修行がいっそう厳しくなる予感をラップは感じた。
「はい、モーリス。」
受けて立つ気合いを込めて、ラップは頷いた。
「ちょっと、ダメだよそんなの!」
二人の会話を聞いていたレオが、憤慨して叫んだ。
「また怪我をするかもしれないでしょ。危ないよ。」
レオはモーリスの体を揺さぶった。
「レオ、これはヘブンに必要な事なのだ。」
モーリスはレオに言った。
「いやだ!」
レオはモーリスとラップに向かって叫んだ。
「モーリスが死んじゃったらどうするの!? 危険な事はしないで!」
ラップは唇を噛んだ。
レオの心配が決して大げさではないと感じて心が痛んだ。
だがこればかりは譲れなかった。
ここで引き下がったら、修行を続けることが出来なくなってしまうと思った。
ラップは敢えて言葉に出して言った。
「レオ君、僕に修行を続けさせて欲しい。危険な事はしないように気をつけるから。」
「聞き分けなさい、レオ。」
言葉は異なるものの、二人は揃って修業を続けることをレオに言った。
「……二人とも、大っ嫌いだっ!」
レオは叫んだ。今にも泣き出しそうな表情だった。
「レオ!」
滅多に怒らないモーリスが声を張り上げた。
レオはびくっとしてモーリスを見上げた。
モーリスの険しい表情にぶつかって、眉根を寄せたレオは、キッとラップを睨んだ。
「ヘブンの馬鹿っ! モーリスを取らないで!!」
レオは堪忍袋の緒が切れたように大声で叫んだ。
ラップは呆然とした。
まただ。
また、人から突き放されてしまった。
ラップはこぶしを握り締め、絶望的な思いでレオを見つめた。
そんなラップの肩に、ぽんと手が置かれた。
「!」
驚いて振り返ると、モーリスがラップを見て頷いた。
モーリスはレオに向かって言った。
「レオ、私はヘブンに約束したのだ。一人前の魔道師に育て上げるまで、修行をやめることはない。」
ラップは目を見張った。
「モーリス…。」
それは、涙が出そうなくらい頼もしい言葉だった。
胸にこみ上げてきた満ち足りた思いは、未だかつて味わったことのないものだった。
この師について良かったとラップは心の底から思った。
「知らないっ!」
レオが声を搾り出すように言った。
俯いた肩が、小刻みに震えていた。
そのままレオは駆け出して、シャリネに飛び込んでいった。
「レオ君!」
ラップは叫んだ。
「あの子の事は気にするな。今日は終わりにしよう。」
モーリスが言った。
「でも…。」
ラップは元気なく答えた。
「今すぐ納得するのは難しいかも知れん。しかし、レオならちゃんと分かってくれるさ。」
モーリスは持ち前の気楽さでそう言った。
「そうですね…、わかりました。」
ラップも答えた。
「…ありがとうございました。手当をしましょう。」
ラップはモーリスの額の傷を見て言った。
「ああ、そうだな。」
モーリスは、今度は確かな足取りで建物に入っていった。
レオは自分の寝台で毛布に潜り込んでいた。
泣いているのかどうかは分からなかった。
傷の手当をしている間、モーリスもラップも言葉がなかった。
そして、自分の部屋に引き取ったあとも、喜びや心配が交錯して、ラップはなかなか寝付けなかった。
(2010.4.30)
(2011.7.23改訂)