古式の巡礼 第4話:ミッシェルさん捏造企画
最終更新日2013年4月8日
古式の巡礼
第4話
少年二人の足は早い。
ラップとジャックは山を駆け下り、まだ日の高いうちにディーネのシャリネへ到着した。
鍵の掛かっていない入り口を開くと、こもった空気が鼻についた。
しばらく誰も扉を開いていないようだ。
ジャックが先に中へ入り、ラップが後に続いた。
二人の正面に鏡の部屋の扉があった。入口の扉よりも頑丈で、重々しい。
ラップとジャックは示し合わせたように相手を見た。
「入るぞ。」
ジャックが取っ手に手を掛けて言った。
「うん。」
ラップは期待を込めて頷いた。
鏡の部屋はどこか神秘的な趣を湛えていた。
部屋の中央にある祭壇は、うっすらと埃をかぶっていた。
祭壇に置かれた半円の器には、一枚の鏡のように澄んだ水が張られていた。
微動だにしないその水面には埃一つ落ちていない。
『水かさも減らないし、埃も落ちない。何度見ても不思議なものだな。』
ラップはじっと鏡の水面を見つめて思った。
「えっと、ここだよな。」
鏡など目もくれずに台座の前へ進んだジャックは、懐から銀の短剣を取り出したが、置くのをためらってラップを振り返った。
その声がジャックにしては抑えられている。さすがのジャックも緊張しているようだ。
「そう、その台座に置くんだよ。」
ラップは答えた。
どんな光景が見られるのだろう。ラップの胸も期待に膨らんだ。
前にシフールのシャリネで見た光景を思い出さないように、ラップは努めた。
今は何も考えず、真っ白な気持ちでシャリネのお告げを受け入れたかった。
「置くぞ。」
ジャックが宣言して、台座の窪みへ銀の短剣を置いた。
ラップはジャックの横に並び、一緒に鏡を見つめた。
すぐに、台座に置かれた銀の短剣から魔法の力がほとばしった。
その圧倒的な力は、どこに潜んでいたのかと思うほどに強かった。
ラップは息を飲んだ。
『これは、どういう魔法なんだろう。』
村で見たときも、ジャックが持っているときも、銀の短剣から魔力を感じることは無かった。
『このシャリネが短剣の魔力を呼び出したんだろうか。』
だがシャリネにも特段強い魔力を感じたことはなかった。
シャリネと短剣、この二つが揃ったときだけ、魔法の力が引き出されるように細工されているのだろうか。
そんなことを考えているうちに、鏡の部屋全体が魔力で呼び覚まされたように活動を始めた。
祭壇の四隅から光の柱が立ちのぼり、鏡からも強い光があふれはじめた。
光は部屋に充満し、ラップもジャックもそれに飲み込まれた。
身体が不思議な力に包み込まれている。ラップは受け入れようと心を静めた。
鏡の真上に白く輝く雲のようなものが現れると、たちまち視界一杯に広がった。
雲が晴れると、そこは一面の青だった。下半分が深い藍の色。上半分がギラつく夏の空の青。見える範囲の全てが、その二つの色で塗り尽くされていた。
『ああ、また見られた。』
ラップは懐かしい景色に再会した喜びを覚えた。
シフールのシャリネで垣間見た光景が、再び、いや三度、眼前に広がっていた。
『海だ……。』
海と空。
どことも知れない大海の真っ只中だった。
カモメだろうか、海面近くを白い鳥が数羽飛んでいた。
ラップは空を見上げ、まるでその場にいるように深呼吸をした。
ふと、何故海に立っているのだろうと疑問が湧いた。
慌てて足元に目を落とすと、そこは滑らかな木の甲板だった。
『船の上なんだ。』
どんな船だろう。ラップは顔を上げようとしたが、意に反して身体は動かなかった。
力を込めて無理やり体を起こした途端、海の風景はふっとかき消えてしまった。
「あっ。」
ラップは宝物を奪われたような気持ちに襲われた。
もっとあの光景を見ていたかった。
ラップは暗い場所にいた。
目が慣れてくるとかなり広い場所だと判った。視線よりも高い位置に、いくつかぼんやりとした明かりが灯っていた。
『遺跡だろうか。』
周りの壁は石造りだ。
正面の壁に大きな模様が見えた。よく見ると竜が二頭、体を絡ませてまるで相手を威嚇している様子だった。
「えっ!?」
ラップは思わず声をもらした。
それは砂漠の国キドナの遺跡で見たものと、うり二つの壁画だった。
だが、今見ている場所はギドナの遺跡ではない。
あそこは迷路のように細い通路が入り組んでいて、ここのように広い空間ではなかった。
『他にも古代の遺跡があるのか…。』
何か無いかと探るように見回したラップは、竜の壁画の前に立つ人影に気が付いた。
遺跡の闇に溶けるような青っぽい服を着て、壁画を見上げたまま動かない。
その後姿は、まだ若い人のようだ。
最初に見たときは気付かなかった。
さっきから居たのだろうか。
もっとよく見ようと目を凝らしたとき、白いもやが急に立ち込め、再び映像は消えてしまった。
「…………」
ラップはディーネの鏡の前に立っていた。
「すごいな。本当にいろんな物が見えるんだな。」
ジャックが興奮した口調で話し掛けてきた。
「う、うん。」
ラップは生返事をした。
頭の中にはまだ今見た光景が再現されていた。
青い海と、ギドナに似た遺跡。
あれらの場所をいつか訪れることがあるのだろうか。
「俺さ、でっかい町を見たぜ。道は全部石がはめ込んであってな、でっかい城もあるんだ。」
ジャックは機嫌よくしゃべっている。
「シャリネで見た事はあんまり話さないって言われなかった?」
ラップはジャックに言った。
ジャックは口を尖らせた。
「いいだろ、減るもんじゃないしさ。村でも結構話してくれた人いただろ。教えてくれなかったジジイはケチなんだよ。」
ジャックは台座に置いた銀の短剣を指でつついた。
「もう拾っても大丈夫か。」
ラップは銀の短剣を覗き込んだ。
先程までの魔力の放出は止まっている。
「大丈夫だと思うよ。」
ラップが答えると、ジャックは注意深く銀の短剣を持ち上げ、ふたたび懐へ仕舞った。
二人は鏡の部屋を出た。
次に来る巡礼者のために、しっかり扉を閉める。
「さーて、これで一つ目が終わったな。」
ジャックが笑顔で言った。
「奥の部屋で休めるよ。」
程なく夕方になる。
今日はシャリネに泊まるつもりでラップは言ったが、ジャックはそのまま外へ出る扉を開いた。
「このままラグーナへ行こうぜ。」
「ええっ。」
ジャックの言葉にラップは驚いた。
「今からじゃ、着くのは夜になるよ。」
「なんだ、夜道を歩くの恐いのか?」
ジャックは煽るようなことを言う。
「そんなことはないけど。」
ラップはしかめ面をして言い返した。
ラグーナにはまだ一度しか行っったことがない。
途中に入り組んだ海岸があったはずだ。夜は迷いやすいのではないか。
「じゃあ行こうぜ。いざとなったら、これがある。」
ラップの心配には気づかず、ジャックは腰に刺した短剣をぽんぽんと叩いた。
銀の短剣とは別の、武器としての剣だ。
山賊出身なだけあって、ジャックの武器の扱いは慣れたものだった。
ラップは諦めて返事をした。
「わかった。行くよ。」
「そうこなくちゃ。」
ジャックはニッと笑ってシャリネの外へ出て行った。
水晶湖を後にし、ラップとジャックは港町ラグーナを目指して街道を進んだ。
最初のうちは整備された街道だったが、分岐の道標をラグーナに向かって歩き始めると、あたりの風景は岩と、砂に近いサクサクとした地面へと変わってきた。
それと共に、風景に赤みが加わり、夕暮れが迫っていることを教えてくれた。
「潮臭いな。」
ジャックがフンフンと鼻を鳴らせた。
ラップは息を吸い込む。確かに少し潮の香りがする。
「海岸が近いね。」
ラップは辺りを見回したが、背丈よりも高い岩のせいで海はまだ見えなかった。
「こっちかな。」
ジャックが目の前を塞ぐ大きな岩を左手に進んだ。
少し開けた場所に出た。
しかし正面にも両側にも岩があって先へ進めなさそうだった。
それでも岩陰に通れる道がないか、そばへ寄って確認する。
だがどこにも人が通れるような隙間はなかった。
「行き止まりだったか。」
ジャックが頭をポリポリと掻いた。
「戻ろうか。」
ラップは今通ってきた道を逆戻りした。
大きな岩に沿って、今度は右手へ回り込む。
岩と岩の間に人が通れる細道があった。
それなりに往来があるようで、地面は踏み固められている。
細道を抜けると、目の前が開け、前方にちらりと青い水面が見えた。
「ジャック、こっちでいいみたいだ。」
ラップは後ろを振り返ってジャックに声を掛けた。
ところが、付いてきていると思ったジャックの姿がない。
「こら、来るな! うわぁぁ!」
返事の代わりに、ジャックの慌てた声が返ってきた。
「!!」
ラップは慌てて細道を駆け戻った。
ジャックは背中をこちらに向けて、何かと対峙していた。
右手には短剣が握り締められているものの、狙いをつけている様子ではない。
ジャックの横に走り出ると、目の前に蜘蛛に似た魔獣がいた。
普通の蜘蛛も決して可愛い生き物ではないが、これは胴体が子供の体くらいある大物だった。
胴から生える足は太く、力がありそうだ。
「魔獣?!」
「ネバネバした糸を吐きやがる!」
そう言いながら、ジャックは左手で顔に張り付いた灰色のものを引き剥がそうとしていた。
ジャックは戦力にならない。そう判断したラップは迷わず右手を前へ突き出すと、魔獣の体めがけて風の刃を放った。
「かまいたち!」
数本の風の刃は魔獣の胸や腹を切り裂き、細長い傷を作った。
魔獣がひるみ、数歩後ろへ下がった。
「おっ、やるじゃん!」
顔に付いた粘りのある糸をやっと剥がし終えて、ジャックが短剣を構えた。
「後はまかせろ。お返しだ!」
そう言うなり、ジャックは魔獣へ突進した。
逃げ腰になった魔獣の胴へ、ジャックは短剣を深々と突き立てた。
魔獣はしばらく足をばたつかせていたが、やがて息絶えた。
「ふう。」
ラップはひとつ息をついた。
「やーれやれ。こいつ上から降ってきたんだぜ。」
ジャックは短剣を抜き、魔獣の血をぬぐってから鞘にしまった。
「ま、俺とミッシェルに掛かればあっという間だな。」
魔獣の死体から宝石のように光る石を拾いあげ、ジャックは得意げな顔で笑った。
「……そうだね。」
釣られて笑いかけたラップは、ふいに不安に駆られてジャックから顔を背け、岩の上を見たり、他に魔獣がいないか確認したりした。
「何だ、ミッシェル。魔獣を倒したのに嬉しくないのか?」
ジャックが不思議そうに聞いた。
「急なことだったから、つい魔法を使ってしまったけれど……。」
ラップはそろそろと視線をジャックに向けた。
「すごかったな、あれ。お前、結構強いな。」
夕日に染まるジャックの顔には興奮しか浮かんでいなかった。
『ジャックは魔法が怖くないんだ。』
怯えたり警戒されることはないと見て取って、ラップは小さく頷いた。安心した。
「旅の間は魔法が必要になると思うんだ。ジャックと二人だけのときは使おうと思う。でも、他に人がいる時や、町の中では使わないつもりだよ。」
ラップは自分の考えを正直に伝えた。
「それで、ジャック。他の人には、魔法のことは黙っていてもらえるかな。」
虫の良い頼みだと思ったが、ラップは言ってみた。
「ああ、いいぜ。俺も山賊上がりだってことは知られたくない。お互い様だ、そういう事は黙っていようぜ。」
ジャックもまじめな顔で言った。ラップはほっとした。
「ありがとう。暗くなってから襲われたら大変だ。先を急ごう。」
ラップはジャックに言った。
「ああ、そうだな。」
ジャックも頷いた。
細い帯のように見えていた海はすぐに大海原となり、間もなく二人は波打ち際へ出た。
砂は波に固められて、一歩進むごとにくっきりと窪んで足跡を残した。
初秋の陽は暮れて、鮮やかな夕焼けが海を一面のオレンジ色に染めた。
「まだ掛かるよな。」
ジャックがつぶやいた。
「多分ね。」
ラップは答えた。あと数時間というところか。暗闇を歩くことになるだろう。
「暗くなったら、あれ出せるか?」
ジャックが言った。
「あれ?」
ラップは聞き返した。
「ほら、ゆうべ魔法で出してたやつ。」
ジャックは右手を高く掲げて見せた。それは松明を持っている姿に見えた。
「ああ、炎。」
ラップはやっと合点がいった。
そして同時に、腹の底に重りを飲み込んだような不快感に襲われた。
ラグーナに着くまでの間、ずっと指先に炎をともし続けるというのか。
魔力もずい分消耗しそうだが、それ以上にラップの心が消耗してしまいそうだった。
「松明になる木を探そう。その方が明るいよ。」
ラップはそう言って海岸端の木立の中へ分け入っていった。
落ちている手頃な枝を何本も拾い上げる。
「ジャックも持っていて。」
半分をジャックの胸に押し付ける。
「暗くなったら火を点けるから。」
「お、おう。」
ジャックは目を丸くして木の枝を受け取った。
しばらくすると日は沈み、最後の光が暗闇に飲まれた。
ラップは魔法の炎を使って最初の木の枝に火を点けた。
枝に巻く物がなく、すぐに燃え尽きてしまうが、道を照らすには十分だった。
二人の周りだけがほんのりと明るい。
自然と二人の歩調は早くなった。
話もしない。
明かりの届くぎりぎりのところに、時折り打ち寄せる波が見えた。
波打ち際を離れないように気をつけながら二人は歩いた。
前方にちらちらと明かりが見え出したのは、二人の持った木の枝が殆ど無くなった頃だった。
「ラグーナかな。」
ラップは思わずつぶやいた。
「きっとそうだ。長いこと歩いたからな。」
ジャックも期待のこもった声で言った。
「ああ、腹減ったなー。」
ジャックが大きな声を出した。
その正直な言葉にラップも笑みを漏らした。
「急ごうか。」
「おお!」
二人は駆け出した。
「止まれ止まれ。」
町を囲む塀の切れ目に大きなかがり火が焚かれており、見張りの兵士が立っていた。
ラップとジャックが駆け込もうとすると、兵士は手を大きく振って二人を制止した。
「誰だ、こんな時間に。」
正体を見極めようと、じろりと二人を睨んでくる。
ラップは身がすくむような気がした。ジャックよりも数歩後ろで立ち止まる。
「俺たち、巡礼をしているんです。ほらこれ。」
ジャックが銀の短剣を取り出して兵士に見せた。
「おお、巡礼の子か。」
兵士の目つきが一転して穏やかになった。
「こんな時間まで街道を歩くのは感心しないな。魔獣に襲われなかったか?」
兵士はジャックの持った短剣を覗き込み、ついでにジャックの頭をガシガシと引っ掻き回した。
「いっぺん蜘蛛みたいな奴に出くわしたけど、俺が倒した。」
ジャックは兵士の荒っぽい歓迎からするりと逃げ出して胸を張った。
「それは運が良かったんだ。もっと強い魔獣が出てくることもあるんだぞ。移動するのは明るいときだけにしなさい。」
兵士は怖い声で言った。
「気をつけます。」
ラップが答えた。
「ほら、最初の曲がり角に宿屋がある。早く行ってみな。」
兵士は後ろに続く街並みを指差した。
「ありがとう、おじさん。」
ジャックが礼を言うと、兵士はちょっと複雑な笑顔を浮かべた。
教えられた宿屋はまだ一階が明るかった。
ラップは自分が緊張しているのに気が付いた。
普段は、あまり積極的に町の宿を利用しない。周囲の魔法使いを見る目が厳しいからだ。
今日はどうだろうか。マントを身に着けたラップを、宿の人はどう言うだろう。
「こんばんは!」
ジャックが大きな声で宿屋に入っていった。ラップは静かに後に続く。
「おや、子供じゃないか。なんだい、こんな時間に。」
「俺たちラグピック村の巡礼です。泊めてください。」
ジャックが言うと、エプロンを掛けた女将が顔をほころばせた。
他の客が数人、顔を上げて二人を見た。
「そうかい! いや、嬉しいねえ。こんな遅くまで、どうしたんだい? 道に迷ってたのかい?」
そう言いながら、カウンターから出て来て二人の前に立った。
「銀の短剣を見せてもらっていいかい? 疑うわけじゃないけど、しきたりだからね。」にこやかな顔をしているが、目は笑っていないなとラップは思った。
「はいこれ。」
ジャックも女将の気配に気付いたらしい。ジャックにしては丁寧な手つきで銀の短剣の柄を女将に向けた。
女将は手は出さずに、じっと銀の短剣を見つめた。
「わかった。もう仕舞っていいよ。」
しばらくすると女将は顔を上げて言った。
「え、わかったって?」
ジャックが女将に尋ねた。
「その銀の短剣は本物だってね。何か語りかけてくるような気がするのさ。この子供たちを守ってくださいって頼まれている気がするんだよ。」
女将は奥の厨房と二言三言言い交わした。
「お腹が空いているだろ。あり合わせのものだけどちょっと待ってなよ。」
「ありがとう、おばさん。もう腹がペコペコで。」
ジャックが心底ありがたそうな顔をした。
「ここへ座りな。そっちの子も。」
女将はラップにも声を掛けた。
「おや、あんた寒いのかい? 厚いマントだねえ。」
ラップの格好を見て女将が言った。ラップはどきりとした。
「なんだか似てるな。ほらよ、山賊とか魔法使いがそういう格好をするじゃないか。」
店にいた他の客がラップを見て言った。
「あ、あの、これは……。」
ラップはとっさに答えようとして、しどろもどろになった。
「ひでえよオジサン! 俺たちは巡礼をしてるんだ。」
ジャックが断固とした口調で男に言い返した。
「やめないかい!」
さらにお客が言い返そうとするのを、女将の罵声がさえぎった。
「あたしはちゃんとこの目で銀の短剣を確かめたんだよ! せっかく縁起が良いってのに難癖つけるなら、今日はもう帰ってもらうよ!」
女将が迫るとお客はちぢこまって首を横に振った。
「そんなつもりはないよ。ちょっと似てるかなーって思っただけだよ。酔っ払いの戯言だって。もうちょっと飲ませてくれよ。」
そう言って客は自分のカップを大事そうに抱え込み、ジャックとラップにもぺこぺこと頭を下げた。
「これきりにしておくれよ。」
女将は了解したという風にうなずいた。
「あんたも、大人に話し掛けるときはもっと丁寧に。安い喧嘩なんか買うんじゃないよ。」
女将はジャックに向かって言った。
「は?」
「子供は子供らしく。背伸びしなくたって、すぐに大人になっちまうんだからね。」
「はあ……。」
ジャックが首をかしげながら席に座った。
「上等なマントだねえ。」
女将は改めてラップをしげしげと観察した。
「今暑くたって少しは我慢するんだよ。村へ帰る頃には寒くなるからね。きっと帰り道のことも考えて用意してくれたに違いないよ。感謝するんだよ。」
「……はい。」
ラップはいさかいを止めてくれた事に感謝してうなずき、ジャックの隣へ腰を降ろした。
女将は自分の想像できる範囲で勝手な結論に達したようだった。別にそれでも構わない。
魔法使いだと知られて居づらくなるのでなければ、早とちりでも誤解でも平気だった。
厨房から、皿に盛った肉や野菜が運ばれてきた。
温め直したもののようだったが、空腹をこらえている二人には立ち上る匂いだけでも腹が鳴りそうだった。
「さあ、お食べ。」
二人の顔つきを見たのだろう。女将が笑いをこらえるような顔で言った。
「いただきます!」
ラップとジャックは今しがたのいさかいなどすっかり忘れて食事に夢中になった。
それほど空腹だったのだ。
二人の前に空っぽになった皿が並んだとき、あの飲み客はいつの間にかいなくなっていた。
「部屋に案内するよ。」
質素な二人部屋に案内されると、腹が満ちているせいか、疲れと眠気が襲ってきた。
二人はそれぞれ寝台に身を投げ出した。
「疲れたー。」
「ちょっと無理をしたよね。」
ラップは手探りで靴を脱ぎ、マントを取って枕元に置いた。
「ちょっとな。」
ジャックは認めたくなさそうに言った。
寝そべったまま、腰当てを解いて放り投げる。
「明日は船の上だぞ。」
ジャックが言った。
「フォルティアを離れるんだ。」
「そうだね。」
ラップは相槌を打った。
そうだった。海の向こうはメナート。テグラのシャリネがあり、あのテュエールの町のある国だった。
『国を出るとき、役人に会うんだろうか。』
巡礼の旅人で押し通すと決めていたが、不安が頭をもたげた。
『ここの女将さんだって、銀の短剣を見たら僕を魔法使いだとは考えなかった。大丈夫。きっと大丈夫だ。』
ラップは自分に言い聞かせた。
言い聞かせても、所詮は偽りだった。
ラップは本来の巡礼者ではなく、魔法を操る者で、しかもテュエールで人を殺めたのだった。
国を渡り歩いているが、ただの一度もちゃんと関所を通過したことがないのだった。
それらが露見したら、旅は続けられない。
『でも、生きていくためには止むを得ないことなんだ。』
チクチクと胸を刺す良心を、ラップはあえて無視した。今までもずっとそうしてきたように。
翌日、たっぷり休んだ二人は女将に礼を言うとラグーナの港へ向かった。
港の建物は大きくて、待合所には出航を待つ人が集まり始めていた。
「船に乗りたいって、どこで言うんだ?」
ジャックがきょろきょろと辺りを見回した。
ラップは控えめに辺りを見た。目立たず人に知られずに、ここをやり過ごしたかった。
待合所の奥で、カウンター越しに話をしている老人がいた。話し相手は若い女性で、なにやら帳簿のようなものをめくっている。
やがて話がまとまったのか、老人はカウンターに代金を置いて乗船札を受け取った。
「ジャック、あそこだよ。女の人がいるところ。」
ジャックの肩を叩き、カウンターを指差す。
「よし。」
ジャックは確認もせずに歩き出した。
その行動力はラップにはとてもありがたいものだった。ラップはなるべくジャックの影に潜んでいたかったのだ。
「こんにちは! あの、メナート行きの船に乗りたいんですけど。」
ジャックはカウンターの女性に話し掛ける。
「はい、いらっしゃいませ。えーと、あなた方、二人だけで?」
二人を子供と見て、女性の視線はあたりに保護者の姿を探してさまよった。
「俺たち巡礼の旅をしているんです。」
ジャックが胸を張って懐から銀の短剣を取り出した。
「まあ。そうだったのね。」
女性も納得した顔つきになった。
「拝見します。うん、確かに銀の短剣ね。どちらの巡礼さんかしら?」
「ラグピック村です。」
「あら、ご近所ね。お名前は?」
「俺はジャック。こいつはミッシェル。」
ラップが体を硬くした間に、ジャックが答えていた。
女性は手元の帳簿に二人の名前を書き加えた。
「ニーリ行きの定期船はあと2時間で出航よ。鐘が鳴るからそれまで自由にしていていいわ。」
女性はそう言って会話を切り上げた。
簡単な手続きで船に乗れそうだ。ラップはホッとした。
ふと気付いて女性に尋ねる。
「あの、乗船札はないんですか?」
「ああ。巡礼の方は正式にはお客様ではないのよ。」
女性は言った。ラップとジャックは顔を見合わせた。
「私から船に伝えておくから、乗船するときもう一度銀の短剣を見せてね。」
女性はにっこりと笑った。
彼女の笑顔の意味を知ったのは、二人が定期船に乗船してからだった。
出航してすぐに二人は船長室へ連れて行かれたのだ。
「これは嬉しい。巡礼の人を乗せるのは光栄だよ。」
初老の船長はにこやかに言った。
「ところでだ。知っての通り、巡礼の方たちからは船賃を頂かないのが昔からの習わしだ。それと一緒に、うちの航路では水夫の仕事を手伝ってもらうのが慣例になっていてな。君たちにもいろいろ手伝ってもらうよ。」
「え?」
ジャックが顔を引きつらせた。
「いろいろ……ですか?」
ラップも恐る恐る尋ねた。
「そう怖がらんでもいい。二日足らずの船旅だが、船乗り気分を満喫できるだろう。ポール、後を頼むぞ。」
「はい船長! さ、行くぞ。」
ポールと呼ばれた水夫は、先に部屋から出て行った。二人も慌てて追いかける。
二人は船の中央付近へ連れてこられた。
「えーっと、俺はポールだ。一応あんた達の監督役だな。名前教えてくれるか?」
「ジャックです。」
「ミッシェルです。」
間違えないように名乗り、ラップはポールの言葉を待った。
「ジャックとミッシェルか、よろしくな。二人には俺たちの仕事を手伝ってもらう。まずは荷運びだ。」
ポールはタラップの側の甲板に詰まれた沢山の荷物の山を指差した。
「収穫の時期だからな。いつもより荷物が多かったんだ。これを船倉へ降ろす。一つ持って付いて来な。」
そう言うと、ポールは手近な荷物をひょいと持ち上げた。ラップとジャックも持てそうな大きさの荷物を肩に担いだ。
甲板の下は二層になっていて、上が客室、下が船倉だった。
下り道とはいえ、何度か往復すると息が上がった。
「ミッシェルだっけ、暑いだろ。マントを脱いだらいい。」
甲板に出て額の汗をぬぐっていると、ポールが声を掛けてきた。
「はい、そうします。」
ラップは進言に従ってマントを脱いだ。
汗をかいていたせいか、風が当たって気持ちよかった。
「ここじゃ胸当ても腰当ても要らないよな。」
甲板に上がってきたジャックが、ラップの軽装を見て重い装備品をはずした。
「気持ちいいなー。」
「おらおら、手が止まってるぞ~。」
同じ作業をしている水夫が二人をけしかけて行く。
「もうちょっと頑張ろうか。」
ラップは新しい荷物を掴んだ。
「今晩どんなにマズイ飯が出てきても完食する自信があるぜ。」
ジャックも荷物を肩に担いだ。
全ての荷物が船倉に収まると、二人はしばしの休憩をもらった。
二人は船首のあたりに陣取り、足を投げ出して吹いてくる風に身を任せた。
「すげえな。陸地が見えないぜ。」
ジャックが周囲を見回して言った。
「海の色も、違う。」
ラップはハッと気が付いて声に出した。
「ああ、真っ青だな。陸から見るのと全然違う。」
ジャックも言った。
『同じだ、あの海と。』
シャリネで見た、深い青色だった。
ラップは立ち上がって船首に近寄った。
青い海を、定期船はゆっくりと上下に揺れながら進んでいた。
船首が沈み込むと波しぶきが身体に掛かった。
ラップは空を見上げた。
初秋の空は薄く雲が掛かっていて、ラップがシャリネで見た濃い青空とは違うようだった。
ここは、あの場所か? それとも違うのか? ゆったりとした船のリズムに身を任せて、ラップはしばし空を見上げていた。
休憩の後は甲板の当直を手伝い、各客室へ夕食を知らせにも行った。
自分たちも水夫たちと夕食を取り、割り当てられた部屋に戻ったのはすっかり日が落ちてからだった。
船は狭いものだという知識はあったが、二人の部屋は陸地で言う「部屋」とは随分趣の違うものだった。
まず寝台がない。代わりにハンモックが吊るしてあった。
部屋はそれだけで一杯で、他には壁に服掛けと、荷物を置く小机があるだけだ。
眠るとき以外部屋に戻らないなら、これで十分なのかもしれなかった。
二人はハンモックへ潜り込むと、言葉を交わすこともなく眠りに落ちていった。
「おーい、起きろよ。」
部屋の外から声を掛けられて、ラップは目を覚ました。
まだ暗い。
ハンモックから下りて扉を開けると、ポールが明かりを持って立っていた。
「お早うさん。眠れたか?」
そう言って部屋を覗き込む。
ジャックがもそもそとハンモックの中で身じろいだ。
「うーん、まだ暗いじゃないか。」
「じきに夜明けだ。甲板を掃除するから起きてきな。」
ポールは小机に明かりを置いて戻っていった。
「お早うジャック。」
ラップはまだ眠たそうなジャックに声を掛けた。
「おはよう。うう、もうちょっと眠りたい。」
「仕事があるみたいだよ。」
ラップは今日は最初からマントを着ずに、動きやすい格好にした。
それを横目で見て、ジャックもしぶしぶ起きた。
「ただで船に乗れると思ったのに…。」
「何もしないでいるより面白いよ。」
「そりゃ、そうだけどさ。」
ジャックも上着や防具はつけず、腰にも銀の短剣だけを差した。
「行くか。」
二人は明かりを持って甲板に向かった。
昇降口を上がると、水夫たちが集まっていた。
輪郭は見えるけれど、まだ一人ひとりの顔は見分けられない。
「お早う。ほれ。」
二人は大きな硬い物を渡された。
「何だこれ?」
ジャックが聞いた。
「木の実の殻だ。こいつで甲板を磨くんだ。」
「へえ。」
「明かりを寄越しな。すぐ日が出るからな。」
「はい。」
ラップは明かりを手渡した。
「こっちこっち、並べよ。」
腰を落とした水夫たちが二人を手招いた。
言われるままに二人は水夫の間に混ざった。
「今日も一日張り切っていくぞー!」
「おーっ!」
掛け声が掛かると、皆は一斉に木の実の殻で床を磨きだした。
「わっせ、わっせ。」
力を掛けてこすりながら、少しずつ前進していく。
「なんだこれ、面白れえ。」
ジャックが歯をむき出しにして笑った。
ラップも頷いた。いつの間にか、あたりが明るくなり始めていた。
何も考えずに声を出し体を動かしているのは面白かった。
甲板の端まで磨ききり、二人は船尾の一段高いところへ大の字になってひっくり返った。
「きっついなあ。」
大きく息をつきながら、ジャックが言った。
ラップも肩で息をしていた。胸がどきどきと音を立てている。
「ははは、よくやったな。音を上げるかと思ったぞ。」
ポールがやってきて二人に声を掛けた。
「このくらい平気だよ!」
ジャックが言い返した。
さっきと言ってる事が違うなと、ラップは思った。
「朝飯まで休んでいいぞ。」
「やったあ。」
ジャックが手を振り上げて喜びを表した。
「ポールさん、ニーリにはいつ頃着くんですか?」
ラップは上半身を起こしてポールに尋ねた。
「そうだなあ。」
ポールは頭上を仰ぎ、しばらくして言った。
「風がいいから夕方には着きそうだな。」
「そうですか。」
「お前ら、ニーリへ行くのか?」
他の水夫が話し掛けてきた。
「違うよ。もっと遠く。」
ジャックが答えた。
「僕たち、テグラのシャリネを目指しているんです。」
二人が言うと、水夫は目を丸くした。
「テグラってネガル島だろう? ニーリから陸を横断してその先の島じゃないか。」
「はい。」
「そりゃ大変だ。頑張れよ。」
「船でスイスイって行けないのかな。」
ジャックが誰にともなく聞いた。
「ニーリとネガル島の間に定期船はないだろ。なあ、ポール。」
「聞いたことないな。ネガル島ってのは、特産物もあまりない島だからな。」
ポールが言った。
「あの、ネガル島から、ボルトへ行く船はありますか?」
今度はラップが尋ねた。
「ボルト? アンビッシュのボルトかい? それはまた別の国じゃないか。」
ポールがあきれたように言った。
「俺っちはこの近くの事しかわからねえよ。」
別の水夫も首を横に振った。
「俺も外国の航路はよく分からん。悪いな。」
ポールも答えた。
「いいえ。ありがとうございました。」
ラップは二人に礼を言った。
「ぼると? それって、どこのシャリネだっけ?」
ジャックが小声でラップに聞いた。
「三つ目の、イグニスのシャリネがあるアンビッシュ国の港だよ。」
ラップは答えた。
「村長さんは歩いてテュエールまで行くって言ってたんだ。テュエールからボルトへ行く船に乗れって。でも、直接行く船があったら歩くより早く着くと思って。」
「ふーん。早く着くなら俺も乗りたいな。」
ジャックの返事はラップの予想したとおりだった。
「うん。これからも探してみるよ。」
ラップはにこやかに答えた。
ポールの予告どおり、その日の夕方、定期船はメナートの港町ニーリへ着いた。
ラップとジャックは水夫たちに見送られて船を下りた。
入国の手続きは、また銀の短剣を見せるだけで終わった。
ラップは内心胸を撫で下ろした。この調子で簡単に出入国できるなら、無事に世界を一周できそうだった。
「ジャック、さすがに今日はこの村に泊まるよね?」
ラップは念の為に尋ねた。
ジャックは足を止めた。
一瞬置いてラップの方を見たジャックの表情は、まさにいたずらっ子の顔だった。
「それだけどさ。どうせこのあと何日も野宿することになるんだろ。今日も野宿したって構わないんじゃないか。」
「え。」
もしかしたらと考えていたとはいえ、ジャックの言葉にラップは驚いた。
「どんな魔獣が出るかわからないから、準備はちゃんとしてさ。それで先を急ごうぜ。」
ジャックの声は真剣だ。
ラップとしては安全を第一に考えたかったが、ジャックの急ぐ気持ちもよく分かった。ジャックは村に残るお祖母さんが心配なのだ。
「じゃあ、ちゃんと準備をしよう。雑貨屋と、武器屋も見てみる?」
即座に頭を切り替えてラップは提案した。
「そうだな。あ、そうだ。これも換金しておくか。」
ジャックは小さな袋を取り出して、中身を掌に出した。
様々な色に光る小さな石。
魔獣が落とすゴアと呼ばれるものだ。一つが15ピアくらいで売れる。一回分の食事くらいになる、旅人には貴重なものだった。
「食べ物を買っておくといいだろうね。」
ラップも自分の荷物入れから、いくつかゴアを取り出した。
「あれ、その色の奴、俺見たことないぞ。」
ジャックがラップの手のひらを指差した。
「これは、シフールのあたりで拾ったかな。」
ラップはジャックの指差したゴアをつまみ上げて、思い出すように言った。
「空に浮かんでいるんだよ。手ごわい魔獣なんだ。」
「うひゃっ、会いたくないね、そんな奴!」
ジャックは首をすくめた。
ラップはその石をしまい込み、ジャックの石と同じような色の物を取り出した。
用心に越したことはない。
このあたりで手に入らないゴアなど見せて、素性を怪しまれたくなかった。
雑貨屋と武器屋を回り、二人は食料と薬類、それにジャックは長剣を手に入れた。
二人の行き先を聞いた武器屋が見立ててくれたのだ。
ラップも武器を勧められたが、それまでジャックが使っていた短剣を持つことにした。
実際にこの短剣が抜かれることはないだろう。
家々から夕食の美味しい匂いが漂ってくる頃、二人は大陸の反対側の海岸を目指してニーリを出発した。
(2013/4/8)